■Urban legend −夜明けの街−■
第3話 「異次元、異世界」 ■担当:鷹埜伴邦■
■――A.D. 20XX Unknown■
絹江は低く唸り声を上げてから、「お入り、立ち話しても頭にはいんないだろう。」とつぶやいて、ドアを開けて二人を誘い込んだ。
神居と静音は一旦、顔を見合わせてから誘われるがまま絹江の自宅に「お邪魔します」と呟いてから入った。
絹江の自宅は、このビルの外観からは予想できないほどに小奇麗に手入れされており、壁に皹も入っているわけでもなく、新しい壁紙とカーペットのにおいが嫌に鼻腔を刺激する。
「絨毯と壁紙をかえたんよ。ちょっと匂うかもしれんがね。」
絹江は鼻の頭を人差し指で照れ気味に掻いてから、そう言った。
ダイニングのテーブルに神居達を座らせると、傍に備え付けられた冷蔵庫からコップとお茶の入った容器を取り出して二人に注いでから、二人の向かいに座った。
「お前さんたちは、この世界に迷い込んできた・・・、人たちを探しているんかい?」
「えぇ・・・、正確には捜索の依頼が入っている人だけですけれどもね。」
そう答えた神居に、絹江は神妙な顔もちで頷いてから「妥当だね」と言葉を呟いてから、二人に話を続けるように促した。
神居は静音に自分の力のことを話そうかと、アイコンタクトを送ったのだが、静音はわからないと言った表情を浮かべてから、お茶を口に含む。
「私の世界で、私の所属している組織・・・探偵みたいなものですが、そこに入ってきた依頼を元に、私はここに辿り着いたっていう経緯です。そのまま、直感でここにたどり着いただけなんですが。」
言い終わってから、乾燥した口をお茶で潤わせる。喉に冷えた水分が走るが、それもすぐに流れてしまい、新たな渇きを覚える。
それほど、緊張に似たものを感じているのだろうか・・・、と神居は考えながらごくり、と喉を鳴らした。
「残念ながら、お前さんたちの望んでいる答えはここにはないね・・・。」
「誤魔化さないでください。意外と・・・、よくあたるんですよ。直感。」
・・・案の定引っかかった・・・。絹江の反応を伺ってから神居は口元を微かに綻ばせた。こちらに、ここを訪れた根拠がないということを知れば、向こう側はそれを否定しようとする。それはここには知られたくない事実が眠っているということを隠そうとしていることにままならない。わざわざ部屋に上がらせたのは、追い返せば怪しまれると思ったからであろう。
「愉快な坊やたちだよ。」
再び、豪快な笑い声を上げて絹江は言った。どうやら、こちら側の意図に気づいたようだった。
「質問に答えていただけますか。」
テーブルの上で、手のひらを合わせながら、そう尋ねるとコップのお茶を乾いた口腔内に含む。嫌に乾燥する口の中、尺度が異なるということに関係があるのだろうか。
無言でいる絹江の反応をOKと勝手にとると神居は息を小さく吸った。
「まず・・・、ここはどこですか?」
「面白いところから聞いて来るんだねぇ。ここは東京という空間上の街だよ。暁月市・・・、その名を知っているなら、それが一番妥当だねぇ。」
どうやら、この世界についての認識は深いようだった。この世界についての認識が深いのであれば深いほど、得る情報は利便性に富んでくる。
「では、この空間・・・、暁月市と東京とはどんな関係があると思いますか?」
先ほどの質問と、間を数秒空けて似た脈絡の質問を行う。もし、本当のことを言っているのであれば、前回の回答と脈絡が合うはずなのだ・・・。
質問にいくつかの伏線を仕掛けている自分に、苦笑いを浮かべつつ。
「ただ、空間上にあるってだけじゃないのかねぇ。東京と空間を共有しているだけで、この空間と現実では次元が違うわけだからねぇ・・・。関係という関係はないよ。ただ暁月市への入り口が東京にあるっていうことかね。」
「次元が違うんですか?」
脈絡の合う質問、つまりこの答えの中に含まれる次元の違いという言葉、それは事実またはそれに順ずるものなのだろう。
「尺度の違いってことかしらね・・・。」
意図的なのか、それとも偶然なのか。今まで口を噤んでいた静音が独り言よろしく口を開いた。
「ふぅん。面白い呼び方をしているんだね。尺度かい・・・。まぁ、それも合っているといえば合っているのかもしれないねぇ。」
ふんふんと鼻を鳴らしながら、絹江は頷いた。
次元の違い…、なんか簡単に次元を超越するんだな・・・、となんとなく思いながら静音の方へ顔を向け、「どういう意味ですか、それは」と尋ねた。
「個人の尺度によって、時の進み方が違う・・・っていうのは次元が違うっていうことじゃない?空間的な3次元と、時間軸で4次元。あとは未来軸、未来終点軸・・・それがすべて合わさって21次元。それが現実世界とされているわ。でも、この世界では、個人個人によって持ち合わせている次元の数が違うんじゃないかしら。」
もちろん、空間座標軸の3次元は最低持ち合わせているんだけれど、と静音は最後に付け足した。
次元論・・・、色々な呼び方があるそれは、現実世界での応用が殆どないことで有名だ。現実世界は21次元で構成される、という論理。空間軸である3軸、横、縦、高さに加えて時間軸座標の6種類。それの組み合わせで18通り。最後に時間軸のみという特殊軸が3種類加わり、合計21次元。それが、現実世界である。
証明されているものではあるものの、考え方の超越に思わず神居は驚いてしまった。ありえないとは決して言い切れないものの、それが現実であるとは受け入れずらい。
「面白いねぇ。嬢ちゃん。お前さんは頭の回転が速いだろう。」
絹江はただ、と言葉を切ると、再び言葉を続けた。
「惜しいけれども、正解ではないよ。それでも、私の口から言っても仕方のないことだよ。東京という世界からやってきた人たちを見てごらん。わかるからね。」
コップの茶の水面に波紋が立つほど、よく響く笑い声を上げてそういった。ぎょろりとした、ビー玉のように大きい目がこちらを見る。
神居はその目をそらさないようにしながら、コップのお茶を最後まで飲み干した。何となく、視線を逸らせては圧されている感じがしたからだ。
ごちそうさまでした、という言葉と共に神居はいすから立ち上がる。
「最後に一つ、いいですか・・・?」
「なんだい?」
「貴方は、暁月市から出ることができると思いますか?」
その神居の質問に、絹江は少し目を泳がせてから
「簡単だね。この世界なんて本当の空間じゃないからね。」
と、可笑しそうに笑いながら言った。
「尋問するの、上手ね。」
階段を上りながら、静音が声を掛けた。
ひんやりとしたコンクリの壁に手を掛けながら神居は立ち止まると「そうですか?」と返した。
そんな受け答えに、静音はくすりと静かに笑うと
「でも、十分ではないんでしょ?」
「まだまだ、序の口ですよ。」
一回、息を整えてから神居はそういって小さく微笑むと、再び階段を上っていく。コンクリのひんやりとした感触を感じつつ、階段の踊り場にある窓から、ふと外の景色を垣間見る。
別段、たいしたことのない景色。
微かに感じる違和感を誤魔化して、そのまま残り少ない階段を上っていった。
「そんなに時間がかからなかったわね。」
静音は顔をほころばせながら、息を切らせる神居に話し掛けた。
「そうですね・・・、多少疲れましたが。」
「やっぱり、体力ないわね…。あなた。」
苦笑いを浮かべる神居に、先ほどと同じような呆れ顔を浮かべながら静音は呟くと、最上階のフロアをきょろきょろと見渡した。
「とりあえず、この中にいるんでしょう?貴方の探している人…は。」
彼女は親指で古ぼけたドアを、指すと後ろ向きにそういった。
「そうですね。ここからだと思います。」
神居は余韻を再度辿りながら、余韻が静音の指差すドアに繋がっていることを確認する。もう一度静音に神居は頷くと、フロアの床をこつんこつん、と靴の先で鳴らしてみた。
建物自体に特殊な処置は施されていないようだった。
「では行きましょうか。」
神居は、無意識のうちにこぶしを強く握りこんでから、そう呟くと、ドアの傍に付けられた、昭和中期から後期を思わせるようなチャイムを、ゆっくりと力強く2回押した。
ビー、という掠れた短い音が2回響いてから数秒の間を空けて、足音がドアに近づいてくる。
ガチャリ、と開かれたドアの隙間から覗く小さな目は、写真で見た梓という少女だった。
チェーンで結ばれた鎖とドアの間から顔が見えるように、神居は身を屈ませると
「梓さんですね?」
と、顔写真を彼女には見えないように、ドアの死角の部分に広げると、ちらりと静音のほうを伺い見た。静音も無言で頷いている分、この少女で間違いないのだろう。
「とりあえず、話があるのでこの鎖をどけてくれませんか。」
できるだけ恐怖を与えないように、やさしい面持ちをするように勤めながら、じゃらり、と鎖をあいている左手で持ち上げた。
少女は、こくりと小さく頷いてから小さく震える手で、チェーンの連結部分をはずした。
写真でみるよりも、少し細身になっている気がするのは、見慣れぬ世界にいるという不安からきているのであろうか。何せ一ヶ月半も前の話しだ。彼女は長い長い一日二日を感じていたのだろう。
外れたチェーンを引っ張って、ドアを開けて中に入ると玄関には彼女が履く靴とは思えない、おそらくサイズ的には高校生位の靴が、3組綺麗に玄関に並んでいた。
「ほかにここに誰か居るのですか?」
「高校のサークルをしてる人が3人います。」
梓という少女はそうとだけ告げると、ダイニングに神居たちをいざなって適当ないすに座った。
「先ず、自己紹介をしましょうか。神居です、こっちの女性の方は静音。」
「よろしく・・・。」
梓はおずおずと二人を何度か目で往復すると、小さく開きかけた口を、閉じた。
「えっと、まずここが東京じゃないってことはわかりますよね?」
「はい…。高校のサークルの人たちが言うには暁月市だって言うので、しばらくは興奮していたんですけど…、いつになったら帰れるのかって。」
どうやら、ある程度。といっても飲み込まれかけていることは間違いないのだが、自分の尺度と時間軸のペースを保持していたらしい。こちらから伺う限りでは、向こうに居ると思しき高校生3人は完璧に尺度を飲み込まれてしまっているようだ。
ただ、そっちのほうが説得は楽そうに思えた。単に、この世界に尺度を飲み込まれたことによって、この世界の真の姿を捉えていないのだから。
逆に、尺度をある程度保った人間にとっては、真の姿を捉えてしまった人間にとっては、少々厄介なことになりかねない。
「静音、向こうの3人組を頼んでいいですか。」
「面倒くさそうだけれど…、貸しにしとくわね。」
彼女はそういって立ち上がると、梓に小さく手を振ってから居間へと姿を消した。
「ここに何日いるか・・・、わかります?」
静音の姿を目で追いながら、梓にそう尋ねた。
「1日しかたってないような気がするけど、本当はもっとたっているような気がします。詳しくはわからないけど・・・。」
そのまま梓は、頭を抱え込むようにふさぎこんでしまった。
尺度を維持したまま…、彼女の時間軸はずっと生きつづけていた。ある程度、呑み込まれていても、生きつづけていた時間軸は、彼女に長い長い1日を与え続けていたのだろう。
「静音・・・、一旦東京へ帰りましょう。これではあまりにもよくありません。」
サークルの高校生3人を引き連れて戻ってきた静音に声を掛けた。静音も無言でそれに了承すると、梓の肩に手を置いて、行きましょう、と声を掛けた。
この建物のほかの部屋に、行方不明者が何人いるかわからない。ただ、現実世界からやってきたと思しき余韻を少なからず感じ取ることはできた。ただ、この世界から抜け出すための方法が曖昧である今は、この人数が精一杯だった。
「静音、風に噂を伝えることはできます?」
「伝えたところで、風の噂を受け取れる人は居るの?貴方の知り合いに。」
神居は無言で首を横に振った。生憎ながら、風の噂を受け取れる知り合いというものは居なかった。
自分の余韻を辿りながら歩く。行きの道とは違う景色なのだが、自分の余韻が残っている分、この道で間違いないのだろう。
この世界から人間が帰ってくるには、自分の目的を果たすのだという考え方がある。前回のケースではそうだ。ただ、神居の持っている余韻を辿る力を使っていけば、半ば強制的に帰ることができるはずなのだ。もちろん、この人数を引き連れているので、帰れるかどうかはわからないものの…。
「結局あなた方の目的はなんだったんですか?」
後ろを歩いて付いてくる高校生3人組に、多少呆れながら尋ねた。かなりの長期間行方不明だったくせに本人たちは自覚がないらしく、1日もたっていないと思っているらしい。
「そろそろですよ。」
回答を数分ほど待ってみたのだが、彼女らは無言のままだった。静音に厳しく諭されでもしたのだろうか。
自分の余韻が、この世界での終着点に近づいていることを知って、やれやれと口を開く。後ろでわずかに息を呑む音が聞こえる。
もう一度、やれやれと溜息を小さく吐いて自分の余韻を強く手繰り寄せた。
余韻が、ここから東京に戻っているということを確認すると、「行きますよ」と4人に告げる。
「じゃぁ、また戻ってきますよ。静音。さよならです。」
と小さく手を振ってから、余韻を最後に強く手繰り寄せた。
* * *
前回のケースとはちょっと異なる戻り方をしたのは、半ば強制的な戻り方であったのと、人数の多さが原因しているのだろう。
「じゃぁ、皆さん自宅に帰っていいですよ。くれぐれも暁月市に赴くなんてことがないよう…。」
余韻を辿った所で4人にそう話すと、そのまま4人とは背を向けて再び交叉点をわたっていった。
■――A.D. 20XX トーキョー某所 倉庫街■
「あれ?どーしたんですか、神居さん?」
倉庫街にやってきた勝也が、神居が帰ってきていることをしって、驚きの声を上げた。彼の手には、さっきまで聞き込み作業をしていたのだろうか、手にはボールペンが挟まった手帳が握られている。
「情報を仕入れたら、すぐにでも出発します。悪いですけれども、メモに書いたものを買ってきてくれますか?」
と、勝也の返事を聞かずに、走り書きしたメモ書きを勝也に手渡した。勝也は、一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、二つ返事に頷くと、倉庫を飛び出していった。
神居はPCの電源を入れると、勝也が残していってくれたらしい資料をぱらぱらとめくった。
暁月市の存在定義から、存在理由まで。さまざまな文章がクリップで一つにまとめられていた。
何故かわからない溜息をついて、 すでに立ち上がったPCの前にいすを移動させると、そのままGINにログオンする。
『景気悪そうな顔してるなー?神居。』
待ち構えていたように、ビルがいつものビルスマイルを放出しながら、ウィンドウにビルの顔がいっぱいに映し出される。唯でさえ、気分がめいっているのだ、このときのビルの顔はかなり腹立たしい。
『さりげなく無視するなよ、神居』
ビルの顔が映し出されたウィンドウをマウスサイズにしながら、神居ははぁ…と小さく溜息をついた。
「ちょっとあの世界は反則ですよ。準備が必要だと思いましてね。」
『珍しいなー。まぁいい。いつもの所にまたあいつをよこしてくれ。』
「あと、警察庁のデーターあります?」
『神居―、それは自分で手に入れろよ。何のためにあの姉貴さんがいるんだぁ?だめだったらデータベースを乗っ取れよ?』
冗談にもならないことを、ビルは平気な顔をして言ってのけた。ただ、この男なら本当にやりかねない。というか、絶対やる。
そんなところが、GINを取りまとめることのできる所以なのだろうが。
『最後に面白いことを教えてやろうか?LES MOSE AUVACH I COZEN , WIL FIECT LOCIE VAN AS MOSE.<ェス ムーセ アウヴァッフ ィ クーゼ (ゥ)イル フィート ルシエ ヴァ アセ ムーセ>、聞き覚えがないだろ?これは、ヨーロッパの古代言語だよ。ラテン語源の言語なんだがー、意味は"真実は、数多の虚構からその姿を覗かせる"だ。』
反応が鈍い、神居をみてビルはにやりと笑うと
『ムーセって言うのは指定詞といってだな、アウヴァッフを指定して、フィート以下の節を修飾しているんだが…、まぁいい。出典も教えてあげよう。AMANNASIENR…アマナーシア、アムネジアだ。神居の探しているものっていうのも、そこにあるんじゃねーのか?』
最後に腹立たしい笑顔を残して、逃げ去るようにビルはGINからログアウトしていった。
記憶喪失、その意味をもつアムネジア。ただ、先ほどビルの言っていた言語での意味は、荒れた道、転じて忘れられたもの、忘れ去られたもの。そして、自己形容という用法で使えば、無理やり閉ざされた、という意味になる。
閉じられた、空間の中にあるアムネジア。今は、アムネジアという建物は機能していない。つまり、その跡地に行け、ということであろうか。
そう考えながら、データベースに回線をつないだ。全国単位で構成される本庁のデータベースからであれば、さらに詳しい情報を得ることができるからだ。
久扇子が警察官であり、いくらその地域の書類に目を通せるとしても限度がある。通例、警察官が個人情報を取得することはある程度の位に就かなければできないことであるし、法に抵触する可能性もある。詳細の個人情報を取得できないのは、ほぼ確実だった。
久扇子に心で小さく謝ってから、表示された警告文のキャンセルボタンをクリックし、ダミー接続を行う。
通例、このようなデータベースに潜入する際、よく用いられるのがウィルスをはじめとしたスパイウェアを投入し、バックドアと呼ばれる裏口を作り、ハッカーを招待する・・・といった手法が用いられるが、プログラムを探査される可能性が高い。
確実性を求めるならば、直接ダミー信号を送りながら、進入するのがハイリスクながらハイリターンだ。
…これで犯罪者か…と心の中で独白を埋めて、決意を決め手から最後のタブにマウスをカチリと押した。
表示される膨大なデータ一覧から、"静音"というワードを探す。Ctrl(コントロール)+Fで検索機能を呼び出すと、ワードを放り込んでPCが検索し終わるのを待つ。それだけだ。
砂時計のマークが解消される。スクリーンセーバーに入っていた画面が自動的に切り替わったからだ。啜っていたコーヒーを机に置くと、チェックを表示させる。
青くチェックされた部分はすべてで3つ。その部分を選択印刷させると、回線をすべて切った。
「言われたもの買ってきましたよー。」
勝也が、ビニール袋を高く掲げながらやってきた。後ろには久扇子と瑞穂が小走りでなんやら書類袋を掲げている。
「帰ってきてたのね。なんかあったの?」
書類袋を傍のテーブルに置くと、一息つきながら久扇子が尋ねた。
「ちょっと調べ物が必要になりましてね。」
PCの電源を落とすと、すっかりと冷めたコーヒーを喉に流し込んで、勝也から頼んでいたものの入ったビニール袋を受け取った。
「ご苦労様でした。重ね重ね悪いのですが、いつもの所にお願いできますか?」
「大丈夫っすよ。神居さん、水臭いっすね。」
と、神居の手から商品代+αの金を器用に商品代だけ抜き取ると、それじゃぁ、と大きく手を振って、ローラーブレードで駆け出していった。
「元気いいわね…、あいつ。」
久扇子が半ば呆れたように呟きながら、ビニール袋の中を覗き込んだ。
「それで、これを何に使おうっていうの?紐とか電池とか…。」
「まぁ、はっきりとわかったことじゃないんですが、暁月市とは次元が異なっている気がしまして。ちょっとした次元の罠を使って確かめようかと思ってるんですよ。」
おどけたように肩をすくめながら、久扇子の手からビニール袋を掠めとると、オイルと卵と塩と硫化剤のパックだけを隠した。
この四つを見れば、一応警察官である久扇子にはわかってしまうだろう。まさか、現役警察官の前で、焼夷弾系の手榴弾の材料を見せびらかすわけにはいかない。
自分でも、過激すぎたかな…と思ったのだが。
「メビウスの輪みたいな感じ?」
欠伸交じりに久扇子は紐をぐるぐる手に巻きつけながら尋ねた。幸い、隠した材料には気が付いていないようだった。
「まぁ、その応用版って感じですね。」
最後にそこに残った、溶けきれていない砂糖をそのままに流しの中に放り込みながら言った。
「それで、その書類はなんです?」
久扇子の視線がチラチラと、書類袋に行っているので、聞いてほしいのだということがわかった。彼女は目を輝かせて、顔で"よく聞いてくれた"といわんばかりに、書類袋を差し出した。
「個人情報の機密書類ー。許可なしにコピーしてきた。」
「そりゃすごいですけど、法律にすごい違反してますよ?」
「冗談にきまってるでしょ。上司のハンコもらったからOK。」
おばさんくさく手をパタパタふってから、仰々しいリアクションを取って彼女は声を張り上げながら言った。
やはり、疲れる。このテンションとこのメートルは酷く疲れる。
耳を押さえながら、久扇子から書類袋を受け取ると、紐を解いて中の上質A4紙数枚を取り出した。
「とりあえず、、、ご苦労様でした。」
ペラペラと書類をめくると、それを再び書類袋に入れると、棚にそれを入れた。
「で、なんかあたし達にすることないの?」
暇だ、というオーラをムンムンとかもし出しながら適当にそのへんをいじくり出した久扇子とは対照的に瑞穂はソファに黙ってソファに座ったままだった。
「そんなにいじらないでくださいね…。」
「わかってるわよ。暇なだけだって。」
「足つかって情報調べればいいじゃないですか。」
「わかってるわよ。それでも疲れるのよね。質問しても、まともに答えてくれないし…。」
「疲れないで得る情報なんてありますか…。」
心底疲れきったような表情で、呆れたように久扇子に神居はそうとだけ言うと、ビニール袋に先ほど隠した材料をこっそりと詰め込んで、そのまま冷蔵庫の中に滑り込ませた。
* * *
「ご苦労様です。悪いですね。」
GINからの書類を受け取りながら、息を切らせて帰ってきた勝也をソファに座らせた。
二人の掛けるソファの前に備え付けられたテーブルにコーヒーの入ったマグカップを二つ置くと、神居は前かがみになりながら手を組み合わせた。
「聞き込み調査の成果はどうですか?」
「いろんな方向に、噂が飛んでますね。尾ひれもいろんな方向で付いてます。幽霊がやってきてさらっていくであるとか、オリジナルからはかけ離れた噂もあるっすね。」
「どこの区域で噂が発生したとか…わかります?」
そういってから、神居はゆっくりと口にコーヒーを含む。コーヒーに砂糖が飽和してすっかりと甘ったるくなったコーヒー。別に好きではないが、嫌いでもなかった。ミルクを入れているわけではないので、微かに残った苦味が甘ったるさを若干ながら相殺してくれる。
何も入れられていないコーヒーをスプーンでかき混ぜながら、そっすね…と手帳を勝也はひらりと次のページにめくる。
「噂の浸透率では、俺の学校だと女子がおおよそ8割、男子が4割ほどってところですね。そのうちの2割が神居さんのいっていた話と限りなく近い話っすよ。」
「IT掲示板等の書き込みとかは?」
「それも似たようなものっすね。特に大手掲示板サイトでは、スレッドが乱立していて、ここ1ヶ月でスレッドが4つも入れ替わってます。ここ1週間の書き込みが激しいですね。」
「そうですか…。」
久扇子が散らかしていった書類ケースに零れた書類を入れなおしながら、神居は呟いた。急速な割合で浸透しているこの噂。本気で思っているものが少ないにしても、暁月市へと赴こうと考える人は少なくない。
一日に何人も暁月市に東京から人が入ってきているのだ。暁月市に入り込むにはそうそう難しいことではない。
ただ、帰ることがかなり難しい。
「どうします?スレッドを利用不可能にしますか?それとも注意書き入れるとか。」
「もっと注目度があがるようなことをしてどうしますか、勝也君。」
神居は苦笑いを浮かべながら、カップにコーヒーを注ぎ足した。そっすね…と勝也も笑いながら、再び思案し始めた。
「今は、手出ししないのがベストでしょうね。行くなといわれれば行ってみたくなるのが人間ですから。」
「そうですね…。」
すっかり闇に包まれてしまった空を窓越しに見つめながら、時計をふとみると時刻はすでに8時を過ぎていた。
「それでは勝也君、情報集め宜しくお願いしますね。」
「そりゃ、任せてくださいよ。」
それじゃぁ、と勝也は最後まで威勢のいい声を上げると、倉庫街からローラーブレードで走り去っていった。その姿をカーテンの隙間から、ちらりと伺って神居は少し微笑むと、冷蔵庫の中に滑り込ませていた簡易手榴弾の材料だけを引っ張り出し、転がっていたペンチと容器、その他色々を両腕に抱え込みそれをどさりと机の上に下ろした。
…まさか、ここまで準備する必要はないのだろうけれど…
材料の山を見ながら、思わず自嘲気味の苦笑いが口から零れる。調子にのって買い込みすぎたようで、この量であれば5つくらいできる。
…テロリストってこんな気分なのかな…
そんな笑えない冗句を一人心の中で神居は呟きながら、笑えない溜息を一つ吐いた。ビルのサインイン時のネームが"Prepare Chicago pineapple (手榴弾を用意しておけ)"だったがためにここまで用意する必要があるのだろうかないのだろうか。ただ、手渡された資料には"Chicago pineapple"と表記されていたのだから…、これでいいんだろう。
神居はそう思い切って、ペンチの先を動かした。
翌日。
■――A.D. 20XX トーキョー シブヤ■
朝から、雑踏で満ちた街をアタッシュケース片手に歩きながら、街を軽く見渡した。黒い服装で銀色のアタッシュケースを抱えた男、というのは怪しいものだが、この街に来てしまえば、怪しいも何もない。ただの黒い男、として認識されるのみなのだ。
何となく、そのへんが恐ろしく感じたりもする。
神居は余韻を辿ることのでき、且つ、人目のあまりない場所を選ぶとそのまま余韻を直接辿った。
* * *
何ともいえない内に、体は現実の東京という世界から抜けて、暁月市という空間に潜り込んでしまう。東京なのか、区別のつけようがない曖昧な世界を軽く見渡して、ゆっくりと動く人波に逆行するとそのまま見覚えのある姿に声を掛けた。
「ここには偶然なんてものがあるんですかね。」
「私が風の噂を辿ったのだから、偶然ではないけどね。」
そんな挨拶代わりの神居の言葉に、静音は静かな笑みを浮かべると行きましょう、と神居を促す。
「なんか、情報でも仕入れたのね。」
「まぁ、そんなところですよ。」
肩をすくめて、情報の曖昧さを適当に神居は示してすれ違う人の横顔をふと伺う。
「ところで、この人ごみの内の何人が、現実世界から来た人だと思いますか?」
他愛のない質問だと、自分で思いながら一歩先を行く静音にふと尋ねる。
「そうね…、全部じゃないかしら。」
言葉とは裏腹に対して思案したような動作は見せずに、彼女はすんなりとそんなことを言ってのけると、彼女は歩調を少し早めた。
「それから、アムネジアのあった場所に案内していただけますか。」
■――A.D. 20XX 暁月市内 旧アムネジア館■
「建物は…、残っていたんですね。発散したものと思っていたんですが。」
建物は、訪れたときとは多少異なる雰囲気を出しながらも、暗く静かに鎮座していた。神居の記憶では、発散してしまったように思えたのだ。
「一人ひとりの尺度が違うということは、時間の逆行もありえるのよ。」
「ややこしい仕組みですね。」
神居はそういってから、アムネジアの入り口にある扉をそっと開いて、中を伺う。案の定、廃業となった映画館の中には誰もおらず、時間の経過がないはずのこの世界でも、微かに被った埃が、誰も居ないことを黙示していた。
「なぜアムネジアに?ここには誰も居ないのよ。」
床にたまった埃に彼女は指を触れて、溜息を吐きながらそう呟いて神居を伺った。
「アムネジアという出典の本に、私の探しているものの何かがあるかも知れないからです。申し訳ないのですが、少しだけ私用を優先させていただきました。」
まだ生きていた電気系統のスイッチをすべてONにして、長い間使われていなかった水銀灯の白い光が館内を満たすのを待つと、資料室と書かれたオフィスのような室内のドアノブをそっと開くと、その部屋の蛍光灯をつける。
「貴方が探しているもの、ね…。貴方ならすぐ見つけられそうなのにね。」
「見つけられないことが情けないですか?」
「いいんじゃないかしら。一つくらい隠されたものがあっても。」
そんな静音の答えに、神居は軽く肩を竦めると歴史を感じさせる木製の本棚のガラス戸を引いた。
ガラス戸は多少抵抗するように、ギギギと耳障りな音を上げて開いた隙間から、AMANNASIENRと書かれた書物を手に取った。
ハードカバーに付着した埃を手で払うと、重く厚い表紙を捲ってみる。
そこには、ここの館長であった康三郎監督の字であろうか、"Face fact or no, wait. And you get truth that you've wanted. The truth is told and figure many fictions, or on. (真実か、或いは虚に直面し、見極めよ。そうすれば貴方の望んでいた真実を得ることが出来る。そして、真実は多くの虚構から姿を現し、順ずるものにより語られる。"と書かれていた。古典的な用法で使われた、その構文からは書かれた時代の差を感じる。もちろん、尺度が異なるこの世界では関係のない代物と化してしまったのだが。
ラテン語で書かれた文章。正直言って、余り理解することは出来ない。そして、ラテン語の自由語順が、さらに混乱させる。
ただ、途中に挟まっている日本語の書き込みだけは理解することが出来た。
"この世界を構成するのは、虚構にままならない。虚構で構成された世界は、時間の流れすらすべて正しいことはない。存在定義から間違っているのだから。だから、私の存在も間違っている。この世界から、真実を見つけ出すことは難しいと思う人がいるであろうが、それも違う。緑色の草原にある、朱色の花を見つけるがごとく。真実は目立ちすぎているのだ。そして、その朱色の花を摘むことが出来るのは真実を知るものだ。"
「えらく気障な文章ね。」
神居の読んでいた折込の紙を、すっと彼の手から抜き取ると彼女はそれを読んだ。
「これが手がかりなのかしら?」
「手がかりの一つでしょうね。これもですけど。」
神居は手に持った本を静音に見せるようにしてパタパタと振って見せた。その折に彼の手にくくりつけられた金色の懐中時計がきらりと光る。
「時計なんて意味のない代物だって、わかってたんじゃないのかしら?」
「そうですか?現実世界との誤差を知れば、結構楽なんですけどね。」
苦笑を浮かべて、懐中時計の鎖を整えるとそれを隠すように、服の袖でそれを覆い隠した。
「とりあえず調べたいだけ調べればいいんじゃないかしら。時間は関係ないんだから。」
彼女は、そっと始めてみせる笑みを浮かべながら神居に背中を向けると、ドアを開きざまに、
「映写者室にいるわね。」
「有難う。」
「それで、次に行く予定の場所はあるの?」
アムネジアの建物を背にしながら、彼女は神居の背中を追いながらそう尋ねる。
「予定ですかね…。とりあえずは、あの絹江さんの所にもう一度訪ねてみようかとは思ってますけどね。」
「あそこにいると、尺度を保持しにくいのよね。私にとっては関係ないけど、貴方は違うでしょう?」
「あの渇きはそれが故なんでしょうかね。」
「それはどことなく漂っているプレッシャーみたいなものじゃないかしら。あの目は結構威圧的だから。」
静音は、背後で小さくなったアムネジアの跡をもう一度見つめると、その続けざまに空を見上げた。
「面倒くさいですね。」
そんな静音につられるように、手首の懐中時計を無意識のうちに押さえながら、中途半端な明るさの空を見上げた。
月だけが、空を明るく照らす。焼けたように黄金色の月は、暁の如く輝いていた。
尺度が一定ではないために時の流れは適当に等しい。腕もとの懐中時計では、東京は今頃3時頃のはずだし、今日は新月で月が見えるはずはない。
「これほど面倒なことはないわ。」
彼女は憂いの混じった表情で、月に向かって溜息を吐く。そして、しばしの間だけ月を見上げてから、嘘の月から視線を外す。
「行きましょう。嘘の月を見上げているほど悲しいことはないもの。」
「そうですね。」
■――A.D. 20XX トーキョー ミナト区近辺■
「有難うございました。」
久扇子は何百回目かになる台詞を、スーツの男に述べるとそのまま近くのベンチに腰を下ろす瑞穂のところに戻った。
「全くのシロだったわ。面倒くさいー。」
「そんな簡単にあたらないと思うけどね。」
苦笑を浮かべながら、瑞穂は手にしたホットコーヒーの紙コップをクシャクシャに丸めた。
「でも、結構情報は集まってきたほうなんじゃない?」
「いまだ、聞き込みで得た情報はないけどね。」
久扇子は溜息混じりに呟いた。
唯でさえ、珍しい名前だ。そこまで簡単に情報を手に入れることが出来るとは思ってもいなかったが、ずっと同じ場所で2時間も聞き込みを行うのは少々癪だった。
仕事を早く切り上げたのに、仕事が終わるのと同じ時間になってしまった。
「面白い手帳の使い方するね。」
手帳を横に広げて、メモ書きを漁っていた久扇子に思い出したように瑞穂は尋ねた。
「先輩の刑事さんがね、こういう使い方してて憧れたのよ。」
「そういう面があるんだね、久扇子にも。」
久扇子は、曖昧な笑みを軽く浮かべてから、立ち上がると徐々に照らし出されてきたネオンを仰ぎ見ながら、手帳を閉じてポケットに仕舞い込んだ。
「じゃぁ、もう一頑張りしましょうか。」
「そうね。」
瑞穂は軽く久扇子に頷いてから、彼女自身も立ち上がると彼女の手帳をポケットから取り出した。
■――A.D. 20XX トーキョー ブンキョウ地区■
「暗いなー、この部屋。」
部屋を支配する沈黙に、耐え切れなくなって勝也が口を開いた。学校にこんな部活があったのだろうか、という驚きと気味の悪さが半分半分で脳内を支配している。
ミステリー研なのか、それともコンピューター研なのか、部屋には数十台のコンピューターと、窓際には本棚がずらりと並び、日光を遮断する。
充満した埃が、さらに不気味さを漂わせている。
「暁月市だったっけ?探してるのは。」
「それ。有難う。」
クラスメートの久遠に軽く礼を言ってから、本棚に並べられた本のタイトルを斜めに探していく。ラテン語書物から古い文献のレプリカ、高校の一部活とは考えられないような資料がある。
「だけど、珍しいね。勝也君が都市伝説みたいなものに興味持つなんて。」
「姉貴の所為なんだけどな。」
久遠から、暁月市関連の記事や文献の一節がまとめられたノートを受け取りながら、苦笑顔でそういった。
分厚いカバーで覆われたバインダーの中にまとめられたB5サイズのルーズリーフ。それは50枚以上にも上って、印字と、綺麗な字で満ちていた。
「よくまとめたなー、こんな量。」
勝也はノートをぱらぱらと捲りながら、驚きの声を上げた。彼なら、この量を書き写すだけで発狂してしまいそうな量である。
「暇人の集団だからね。」
彼は笑みを浮かべてから、本棚のガラス戸を閉めた。
「ゆっくりしていっていいよ。この部屋、授業以外じゃ使われないから。」
「ありがとうな。」
勝也は久遠にそう礼を述べると、PCデスク用のやわらかいクッション椅子に腰を下ろすと、暁月市関連の記事に目を通していった。
「久遠はさ、暁月市に行って見たいと思うか?」
ふと、思い出したように何となく勝也は尋ねた。久遠は、PCのディスプレイから視線を勝也に向けると
「あんまり行きたくないかな。憧れみたいなものはあるけど、わざわざ嘘の世界に足を伸ばそうなんて思わないかな。」
少々考え込むように間を取ってから、久遠はそういった。
「久遠、お前って最高。」
勝也はそういって、久遠に手を差し出した。
「………?」
と、顔にハテナマークを浮かべながら、久遠は握手に応じてくれた。
さて、この文献によれば(実際、正しいのかどうかはわからないのだが)、暁月市の話というのは意外と新しい話であるらしい。
暁月市についての噂が生まれたのは、現実で語られている都市伝説の中では非常に新しい部類に入る。
一説によれば1日数十人から百数人という膨大な数の人間が暁月市に飲み込まれているのだとか。
1年で最大3万人…、年間行方不明者のかなり高い確率で暁月市に行っているようだが、何となく大げさな気がしないでもない。多くて日に10名程度だろう。
勝也はふんふんと一人で勝手に納得すると、ページをさらに捲くった。
新しいページには、x、y、zという3本の軸が書かれた三次元座標と、ランダムなベクトルにはt軸、s軸などの数本のベクトル軸やら時直線、そして点が示された図が数個、ボールペンで書き記されていた。
おそらく、空間座標軸と時間軸の複合した空間を表す図。ランダム条件を表す記号が21のコンビネーションの後ろにつづられている。
次元…、その言葉がふと脳裏をよぎる。空間軸に加えて時間軸の記されたその図は世界の次元構造の組み合わせを示しているのだろう。
「時間の流れがないって言われてるよ…暁月市には。」
勝也の見ているノートを覗き込みながら、久遠は軸をあらわした図を指差しながら言った。
「そうじゃないと、暁月市には行くことができないからね。」
■――A.D. 20XX トーキョー某所 倉庫街■
神居が言うには、この世界と暁月市のある世界を結ぶ扉のようなもの以外に、暁月市とコネクションを持つことが出来ることは可能であるらしい。
光よりも速い速度で、地球の自転とは反対方向に移動することによって、時間軸の逆行が可能である…、ただ、そのような移動の仕方はほぼ不可能であり、時間軸だけの逆行であるために 暁月市へのコネクションを持つことは出来ない。
ただ、一定空間座標上…、つまり特定の空間内で誘発された時間軸の逆行現象により、暁月市と、この世界での物理的或いは、精神的なコネクションを持つことが出来るのだという。それに似たようなことは、久遠に見せてもらった資料の中にも書いてあったことなのだが、それよりも詳細に記された図面と文章。
それを見ながら勝也は思わず溜息を吐いた。
神居の考えでは指定された特殊条件を満たす空間内で、この世界と暁月市の往来が可能であるという、ただ、その特殊条件を満たす空間内に居れば、人間の肉体などすぐに絶えてしまう。そこで、神居は電波を使った情報のやり取りだけに用いるようだったのだが。
この複雑な図面を見る限り、そのやる気はすっかりと萎えてしまう。
Ω…、電気抵抗だということは何となくわかる。だが、∂という記号は何なのだろうか。後ろに導関数式があるので偏導関数であるというのは辛うじて分かったとしよう。
ただ、これを計算しろ、というのが癪なのだ。
「わっかんねー。」
思わず破り捨ててしまいそうになったのだが、その手を止めて、手近にあった白紙の紙を破り捨てると、すとん、とクッション椅子に腰をおろした。
この設計図を残していって、神居は何をしようというのか。
おそらく、通信に用いることは何とか察しがつく。しかし、それがどのように使用されるのか…それが解らない。
アンテナと、プラグと。通信に使用する、ということはテキスト形式で保存された文章を確認してわかっていた。
だが、肝心の作り方を表す記号が何かわからない…、というのは少々冗談がきつすぎるように思える。
NETで計算方法などを調べなければいけないのであろう。
結局面倒くさいことには変わりは無かった。
あらかじめ用意されていた銅線を回路に繋げ、一回ごとに接続のチェックをする。なんとも高圧電流を流すとかで、回路の接続がきちんとしていないと電流が逃げてしまうそうだ。
だから、このような分厚い銅線を用意したのだろう。電気抵抗は断面積に反比例する。銅線の断面をまじまじと見つめながら、勝也はそれを接続部に繋ぎ合わせる。
設計図の図面を人差し指で追いながら、長さと2000ガウスの磁石を置く場所をミリ単位の細かい計算を繰り返していく。
計算には多少なりの自信があるものの、やや複雑な計算が繰り返される上に文字でびっしりと覆われた図面は非常に眠気を促してくる。
Gであるとか、gであるとか…、f(x)がどうとかwであるとか…。面倒くさいのだ。溜息を吐いても吐いても、次から次へと溜息が漏れる。
そんな自分の口を釘と板で塞ぎたいような衝動を覚えるほど、その溜息は自己嫌悪を呼び起こす。
神居のことを珍しく勝也は呪ったのだった。
■――A.D. 20XX Unknown■
「もうそろそろ、東京では夕方ですね。」
ランダムにやってくるこの世界での時間帯。それをよく表している空を見上げながら、それとは対照的な声を上げた。
「そうみたいね…。長くここにいると、どっちが真実だかわからなくなってくるけど。
「虚構を真実と捕らえるのは、虚構に生きる人だけですよ。」
「誰の言葉、それ…。」
胡散臭そうなものを見る視線で、静音は神居を一瞥すると、神居は首を竦めると「誰でしょうね…?」と茶化すように呟いた。
「でも…、私も風の噂に頼らなければ…虚構に飲み込まれているのね…、正しいことを知れば目の前にある世界が嘘だという根拠が出来るもの。」
静音は静かに息を、憂鬱そうに吐きながら彼女は小さく続けた。
「結局、ギリギリでしか尺度を保てないのかしらね。」
「そういうものなのでしょうか…。」
静かだった周りに、いきなりあふれてくる人ごみを見比べながら神居は面白いものでも見るように、口元を綻ばせながら呟いた。
「それで…、なんか気づいたものでもあるのかしら?」
「いや、いきなり現れてくる人々が相変わらずの謎だな…と思いましてね。」
無意識なのか、腕に巻きつけている懐中時計の鎖を指で触りながら、彼は答えた。相変わらずの固い口調ではあるものの、声はずいぶんと笑っている。
彼の視点から見ると、これは面白い出来事なのだろう。
「そして、どこかへ再び消えていくのね。」
「消えているのは我々ですよ。」
含み笑い混じりに神居はそう呟いた。微かに綻んだ横顔を伺い見れば、何かを知っているような顔をしていた。
その含み笑いは、何かを隠している、という笑みではないことは静音の目には明らかだった。
「いいわ…、何の情報から教えましょうか?」
彼女は、ずっと神居の瞳を見据えたままでいたが、数刻の間を置いて彼女は小さな息を吐くと諦めたようにそう呟いた。
「先ずは場所を変えましょうか。貴方の知っている場所で結構ですから。」
判断を促すように、軽く差し出した右手が彼の余裕振りを代弁しているようだ。ゆっくりとした口調は、経験なのか心理操作と似たものがあるようだ。
「情報戦みたいなのがお好きなのね。」
嫌味をたっぷりと含んだ静音の言葉に、彼は首を傾げて見せると茶化したような笑みを浮かべながら嫌味たっぷりの口調で
「職業柄ですね。」
と答えた。
* * *
「じゃぁ、神居…、貴方の知っている情報を教えて。」
デスクの上で組んだ両手を弄びながら静音は、落ち着いた素振りを見せながらゆっくりと言葉を紡いだ。情報戦のプロでなくても、上手な情報の得かたがなくても、人との話し方は知っているつもりだ。
「駄目です。貴方はどんな種類の情報を持っているかをお聞かせ願えますか?」
神居は苦笑いを浮かべながら、膝の上で組んでいた手を解いた。相手の一挙一動が大きな心理影響を表す。
それを知ってか、政治であれ様々な演説の場では、大きな、仰々しい動作を伴って演説することが多い。
神居の小さな手の動きは、仰々しくも無く一番心理に響いてくる程度の動作で抑えられている。
「いいわ、私が持っている情報は5つ。一つはこの世界と現実世界への扉の場所。往来の方法。現実世界とのやり取りの方法。この世界の規模。そして、この世界の中枢。ざっとこんなところね。貴方が持っている情報一つにつき私の持っている情報をひとつ貴方に与えるわ。」
「応じましょう。ではこちらの持っている情報3つを教えましょうか。この世界の概要。依頼にありましたが、これも含んでしまいましょう。貴方に関する情報。人々が現れるわけと消えるわけ。」
「では、この世界の中枢からお聞かせ願えますか?」
机の上に手を組んで、身を乗り出すように彼は落ち着いた様子で告げた。目をそらすことが出来ない…、否、目を追っている彼の視線から逃げ出すように天井を仰ぎ見る。
真っ白な新しい天井が、嫌に目を刺激する。
拡散した視界を戻すように、彼女は瞼を刹那の間に閉じると口をそっとあけて語った。
「この世界。前にも言ったと思うけれども、人それぞれ、物体それぞれが持っている次元の数は違う。空間を基本として時間軸が存在しているか、していないか。すべてが組み合わされた状態は21次元だけれども、この世界で物体が存在するための順列方法は無限通り。しかも重複を許す順列。
この世界の中枢となっているのは、0次元を表す点と似たようなもの。21次元の世界に存在する21次点という…ある意味数学上での存在が中核よ。
もちろん、どのような姿を持っているのかはわからない。それが機能するためには何が必要で、その上にどのような処理が施されているからこの世界が発生するとか。それはまた別の話になってくるわ。ただ、この暁月市の中心には、絶対に21次点という新しい座標のようなものが存在するはず。わかってくれたかしら?」
彼女は組んだ手を、一旦崩して、顔にかかった前髪を脇にのけてから再び、木製のテーブルの上に細い手を組んだ。
「なるほど…、貴方はどの情報を希望されますか?」
再び反応を促すように、差し出された右手を一瞬目で追いながら、彼女は神居の黒い瞳をゆっくりと目で追ってみる。
「人が消えたり、突然現れたりするわけを。」
「貴方はいつだか、物体それぞれに、人それぞれが持っている次元の数は違うといいました。それがこの論理の根源です。
通例、3次元の空間上に定義が2次元である平面というのは存在しませんよね。厚さが0cmの紙なんて無いわけですから。
それも同じです。私たちは尺度を飲み込まれているわけではないので、自由に自分の持っている次元を変えることが出来ます。4次元から21次元まで。
私が前回、前々回とここを訪れては元の世界に帰ったときは21次元でした。
つまり、人々は自分の体に持っている次元の数が21次元にならなければ現実の…、東京には帰ることが出来ません。
人々が現れたわけ、それは私たちと暁月市の住民の持っている次元の数が重なった。つまり、自分の体にある次元の数はチャンネルといってもいいのかもしれないです。」
自分の持っている次元が8次元であるとしたら。その自分という存在は8次元の空間でしか存在することは出来ない。それは割と知られている次元論の部分であり、触りの部分である。
尺度を保っていることの出来る、神居や静音は自分の持っている次元を自由に…、無意識のうちに設定されることがある。
たとえば、彼らが9次元の空間に切り替えたならば、9次元の空間を持っている人間と接触することが出来る。
そういうことである。
「結構なからくりなのね。」
彼女は組んだ手を動かさないまま、そう呟いた。
「じゃぁ、私からリクエストするわね。私の基本的情報を教えて。」
「詳しくは無い…、詳細情報じゃなくてもいいんですか?」
彼女は首を傾げて見せると、余裕のある表情で「まだ、詳しい情報は得ていないんでしょう?」と呟いた。
「解りましたよ…、その通りです。貴方は静岡県の出身…、これは置いておきましょう。そして一人で上京ですか。1998年に親から捜索願が出ていますね。東京都籍なので、警察本庁にデータが保管されていました。誕生日は、4月の18日。アインシュタインの命日です。優秀、物静か、品行方正。ずいぶんと慕われていたようです。ちなみに失踪したのは大学の帰り道…、丁度友人の前から姿を消したということになっています。その後、ブランクが数年間続いて、つい5〜6年前。貴方は最後にある老人と会ってから、再び姿を消しました。そういえば、行方不明になる前も白い衣装を好んでいたそうですね。」
懐からメモ書きを取り出しながら、神居はそれを流暢にしゃべり始めた。ずいぶんと饒舌なもので、聞き取りやすい綺麗な日本語であった。
「さて、じゃぁ、次の目的地を探しましょうか。」
「あなたは情報を得ようとしないの?」
彼女は驚いたように、尋ねた。静音は神居が情報をもっと求めてくるものだと考えていたらしい。
「その話は次回にお願いします。」
神居は肩を軽くまわしながら、立ち上がると少し崩れていた背広の型を直した。
「じゃあ、行きましょうか。」
「えぇ、神居が探しているのは、貴方の仕事の知り合いだったかしら?」
「その通りです。」
「でも、その前に、前回尋ねたところにもう一度行きましょう。」
そういうと、彼は鈴の付いたドアを開けると、音を立てることなくそのドアを閉め人ごみの中から姿を消した。
あとがき
まったく、あとがきなど細かい調整が遅れてしまい申し訳ないです。
なにせ、センスと知識のない私。多くの執筆者様の時間と知恵を借りて、このレイアウトで書いているのであります。
学生故、世間知らずで申し訳ないです(汗
さて、私は礎を固めてみました。つまり、この世界観をはっきりさせてみたのです。
浮かんでくるネタを当然全て加えることなど当然叶うわけもなく、一粒一粒、磨きながら、泣く泣く削ったのです。
本編で、シカゴパイナップル・・・手榴弾をまじめに作ってしまった神居クンですが、まぁ、ジョークで「いっちょ暴れろ。」みたいなもんらしいです。
かわいいですね〜、神居クン。こっから続きは4話以降に期待するしかありませんな。静音もまったく持ってなぞのままでありますし。
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◇執筆者HP本編リンク◇
■■第1話
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■■第3話(HP閉鎖)
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