ここに人があふれていたのは、いつのことだったろう。
春の風、夏の太陽、秋の落ち葉、冬の雪。
それらをまとったわたしの上を、それはもう数え切れないほどの人間が通り過ぎていった。
小気味よく鳴るハイヒール。
足早に行く革靴。
元気がありあまっている運動靴。
涼しげな塗り下駄。
猫や犬たちのやわらかな足。
こそこそと走り回る働き者の蟻や虫たち。
ときには人間も素足のままで、わたしの表層を覆っているアスファルトを踏んで行った。
* * *
それは、遠い昔。
ここがまだ草と土だらけだったころ。
大きな炎がここら一帯を舐め尽くした。
得体の知れない鋼鉄の塊が空から落ちてきて、人間たちを守っていた小さな家やわたしの上で弾けて砕け、あらゆるものを破壊していった。
家も、木々も、動物たちも、人さえも。
すべてが傷つき、すべてが闇に落ちた時間だった。
どれだけ続くのかと思われたあの惨事も、そのうちに終わりを告げたらしい。
人は再び立ち上がり、朽ちていこうとする物たちにその手を差し伸べた。
癒えない傷はない。
それはたしかに残るものだが、人というのは強いものだ。ついてしまった傷を悲しみながら、またそれをちからにしていく。
それが、自らに生命をもち、自らの意思で行動できる「生き物」というものなのだと――そのときわたしはそう思った。
人は、物を復興していった。
建物。
食物。
そして生きていく上で必要だろうあらゆる物を。
復興と同時に、新たな物をも生み出した。
すべてが動き出し、恐ろしい勢いで成長した。
あのときが、人と物が本当に一体になっていた時期なのだろう。
見る間に家たちが立ち直り、市が立ち、傷つき荒れたすべてがよみがえり、それは町へと育っていった。
わたしにも、人の手が差し伸べられた。
無造作に置かれていた役目を終えた建物の木片や瓦礫たちがどかされ、傷つく前の草と土の状態に戻していった。
そして。
わたしの上を、人が歩くようになった。
整理されたところに建物が置かれ、残りを人が歩く。
人はわたしのことを、「道」と呼んだ。
下駄や草履をつっかけて足早に行く者。裸足で走り回る小さな足。
多くの荷物を積まれ、けれどもどこか誇らしげな荷車の車輪の重さが心地よい。
人が、町が、息を吹き返した。
* * *
それは、遠い昔。
人は「道」と呼ばれるわたしの上をコンクリートで覆った。多少息苦しかったが、コンクリの両端には土の部分を残し、そこに木を植えられたためにたいした支障にはならなかった。
下駄や草履の音に、ゴムや革の音が混じるようになった。裸足の足は、滅多に通らなくなった。
荷車に自転車、それにバイク、それから四輪車が加わって、人はどんどん活気づいていった。
平屋の家屋が二階建てに変わり、木造だった建物が鉄筋になり、ビルディングと名付けられたそれらはどんどん上へと成長し、荷車は消え、四輪の自動車が主流になり、人は裸足をやめた。
わたしの脇に立っていた木造の建物が壊され、大きなビルディングへと変貌した。それは土と緑を取り入れた空間を持ち、また地上三階地下二階と、上へと伸びることを至上命題としているかのようなビル群のなかで極めて落ち着いたおとなしい造りになっていた。
そこには、優しい空間があった。三々五々人が集い、緑の木々は枝を伸ばし、虫たちや動物たちもそこで憩う。建物のなかもそれは同様。老若男女、あらゆる人が出入りした。
それが声をかけてきたとき、ほんの少し驚いた。それまでそんなことをしてきたものはいなかったからだ。いや、本当に遠い遠い日には、そうしていた存在はあった。けれど、それはもうとうの昔に姿を消した。
やわらかで落ち着いた、それでも少し戸惑ったような声。
「あの…………お世話になっています……」
「…………ああ。驚いた。仕事は順調みたいだな」
「はあ、おかげさまで。あなたがここにいてくださるからですよ」
「はは。生憎、わたしはここが定位置なものでね。移動はできない」
「それは……そうか。そうですよね、すみません」
「謝ることはない。君も自分の意思では動けんだろうに」
「あ。そか。はは。でも、ここは……よいところです。居心地がとても」
「それは誉め言葉ととっておいてよいのかな?」
「もちろんですとも」
「ありがとう。ところで、君のなかに入ってゆく人々はいったいなにを目的で?」
「あー…………。本です」
「ほん?」
「書物ですよ。人が使う文字が書かれた紙を綴じた物」
「ああ……書物。それが君のなかに?」
「あ。自己紹介が遅れました。私、中央図書館と申します」
「ちゅうおうとしょかん、くん、か」
「本を貸し出すのが図書館の仕事です。私のなかは、本だらけですよ。本当にたくさんの本たちがおさまってくれてます。私は彼らを守る箱。人間たちは彼らを借りるために私の扉を開けるんです」
「書物を貸し出す商売、か」
「いえ。無料なんです」
「……ただ? 奉仕なのか?」
「まあ、貸し出しの他の部分でいろいろと利益はでてるらしいですけど。難しいことは私にはちょっと」
「それはそうだな。人の考えることは、ときにはわからない」
それ以来、彼、中央図書館は、毎日のように話かけてくるようになった。その日のなかの様子、人の会話、できごと。
彼との会話は、楽しかった。たまに書物たちとも会話して、彼らからもたらされた情報をわたしにも話してくれていた。人の世界の進化は、すごい。毎日の彼の話から、それが確実に伝わってきていた。
戦火は、忘れ去られたようだった。
町には人があふれ物があふれ、あふれすぎた人はさらに町を造り、町は都市と呼ばれるようになり。
図書館も、何度か衣替えをした。
わたしの上のコンクリートも、アスファルトに変わった。
図書館は年を重ね、とても落ち着いた風格のある話し方をするようになった。
いくつもの笑顔、いくつもの涙、いくつもの情景が、しずかに、ゆるやかに、わたしと彼の脇を通り過ぎていった。
* * *
それは、遠い昔。
自動車から四輪が消え、かわりに噴出する空気がわたしをくすぐるようになった。自動車という名称はエア・カーとなり、「道」であるわたしのなかでも人が歩く「歩道」と呼ばれていた部分に手が加えられ、歩道が動いて人を運ぶようになった。
都市は変貌し、宙に橋を架け建物と建物を結び、そしてそれらすべてに電気の仕掛けがされ、人が自分のちからで行っていたことは、次第に電気のちからがとってかわっていった。
わたしの上を行き交う足音は、金属製のものが多くなった。人のかわりに役目を果たす、ロボットと呼ばれる物だ。
最初はガシャガシャとぎこちなかった彼らの足音も、そのうちやわらかで軽快なものになり、やがてほとんど人とかわらぬようになった。
図書館は臈長け、本当に必要なときに必要なことだけを言う存在になった。それでも、わたしに対しては最初とかわらず親しげな口調を崩さなかったが。多くの書物は電子本というデータ形式にかたちをかえたらしいが、彼はあいからわずそれらや人をそのなかで守り、優しい空間を保っていた。
あの戦火のかけらなぞ、ひとかけも残っていなかった。
すべてがシャープで、すべてがクリアで、そしてそれは――言い換えるならば、少しずつだが確実にあるものを失っているようでもあった。
ほどなく。
雨が降らなくなった。雪も風も、それは自然のものではなくなった。
見上げる空の太陽が、ほんの少し歪んで見えた。
「気が……よどんでいますね」
真昼にも関わらず紗がかかったような陽の光に、図書館がそうつぶやいた。
「このところ人が少ないな」
「本どころではないようですよ、人の世は。身を守ることに一所懸命だとか」
図書館を訪れる人が、めっきり減っていた。それと時を同じくして、空はただ昼と夜とを繰り返すだけのものになってしまった。
季節はたぶん春だ。いつもなら、あたたかな風がどこからともなく花の香りを運び、ひと雨ごとにすべてのものが冬の眠りから目覚める季節。しかし、今はそれがなくなっていた。
陽の光が陰り、一面夜のようなときもある。以前なら、こんなときは豪雨が襲い、人はわたしの上を足早に駆け抜け、目の前の図書館に駆け込むのが常だった。が、今では雨は一滴も落ちては来ない。上空を見上げると、遠い空のかなたで、水が渦を巻くように流れるのがかすかに見えたりした。
「ドーム――だそうです……」
わたしが考えていることがわかったのか、図書館が変わらぬ落ち着いた声で言った。
「空と地上を透明な特殊強化素材で区切ってしまったのですよ」
「――ドーム?」
「大気が、毒素を持ち始めたのだとか。それが空気中の水分に溶け、雨となって降り注ぐ。生き物は、長く生きられなくなるそうです」
「……そのために、空との間に仕切りをしたというわけか」
「そうらしいですね。生き物だけではなく、私たちのような存在にも影響はあるようです。私の外壁、少し変色しているでしょう」
言われてみれば、それは老朽化からくる傷みではなかった。特殊コーティングされた白い外壁は雨が吹きつけてもものともしないはず。それが、ところどころ焦げたように黒く色を変え、染みになっていた。
「あなただって多少のことは感じ取られていたはずだ。雨は土からも染みますからね」
それはそうだった。その少し前から刺さるような痛みや熱っぽさはあった。
「情報通は変わらぬな」
「ふふ。たとえ誰も利用しなくなっても、私の中に置かれた集積路は伊達じゃない。彼のおかげで、私のような末端施設にも、今現在もこの世のすべての情報が次々と集まってきていますから」
「あのころから比べると、たいした進歩だ」
「ええ。私がはじめてここに建ったあのころ。あのころは、収められる本や訪れる人々がそれを運んでくれた。動物たちも植物も……雨も風も……あなたからもね」
「わたし?」
「私の知らないことを、どれだけ教えていただいたか。それに、私が建っているのはあなたの上。いつも常に守っていただいているようで……嬉しかったんですよ」
「それはお互い様だろう。わたしは、ここが変わっていくのを見ているのが楽しい。わたしの上に君が建ったとき、人の技術もここまできたかと感激したものだ」
「今はそんなもの、はるかかなたのちっぽけなものになってしまいましたがね」
「ある意味、恐ろしい生き物だな、人というのは」
「そうですね。結果的に今の環境は…………人が作り出してしまったのですから」
わたしと彼は、そうして空を見上げた。
◇ ◆ ◇
ここに人があふれていたのは、いつのことだったろう。
春の風、夏の太陽、秋の落ち葉、冬の雪。
いまは、そのすべてがここにはない。
目の前にあるのは、かつて都市だったもの。
命あるものは存在をなくし、残ったのは「物」だけだ。
その「物」たちも、人の存在がなくなったあと、後を追うように沈黙した。
使われるために生まれた存在。役に立つために在る物。
存在意義を見失った物たちは、ゆっくりと、自分自身を放棄していった。
土も草も木も、自分から成長することをやめた。
壊れたドームから降り注ぐ天からの水と風。今ここにあるのは、それだけだ。
毒といわれた雨には、もうその効力はない。
皮肉なことだ。
人が存在を無くしたことで毒素の原因が消滅し、あとは大気に残っていた成分が無くなってしまえばもとのとおり。
しかし、人を殺した環境は、もとには戻らなかった。
回復力がないわけではない。もともとは、傷ついた部分は自己回復できていた。
けれど、それまで培ってきた生態系を消滅させたほどの傷は、自己回復するには深すぎた。結果、季節などというものもなくなり、一日のうちに灼熱の太陽と氷の闇が繰り返されるようになっている。
図書館は、外観のほとんどが黒く朽ちている。毒の雨を受け続けた結果だ。幸い、すべてが朽ち果ててしまう前に雨は清涼な状態に戻り、今は逆に彼を浄化するように優しく降り注いでいる。
彼は、自分を放棄することはしなかった。朽ちていく自分を認識しながら、「もし」という言葉を遣った。
「もし」
「なんだ?」
「もし……私が朽ちて崩れてしまうなら……あなたの邪魔にならないように、きれいに逝きますから」
「どんなかたちでも、邪魔にはならんさ。いまさら、な」
「……ふふ。それは……そうですよね。いまさら、ですよね」
「逝きたいのか?」
「……その逆です。たとえすべてが無くなってしまっても――私はここにこうして在りたい。私が在ることで、人の軌跡をとどめておける。できれば永遠に……在り続けたいと思います」
「大丈夫。これ以上のかわりはない。雨ももとに戻りつつあるようだから」
「だと……いいですね……」
雨はもとに戻り、彼は朽ち果ててしまわずに存在を保っている。
ここに人があふれていたのは、いつのことだったろう。
あまりにも昔で、その姿もおぼろげにしか思い出せなくなったころ――
わたしの上に、ひどく懐かしい感覚が降り立った。
金属でもなく、革でもゴムでもない。
けれど、たしかによく知っている、「足」の重み。
『こんなになってしまったのね……』
『なんとかもとに戻せるといいな』
――人。
『ねえねえ、ここはなんの建物?』
『……さあ。入ってみる?』
人――。いったいどこから。
おそらくは、まだ若い男女。
ゆっくりと、彼らは図書館に足を踏み入れた。
「…………驚いた……。人、ですね」
多少動転しているかのような図書館の声がした。
「やはり間違いなくそうか?」
「そうですよ。どこからどうみても、人間です。生きていたんですね、どこかで」
「…………どこか……。そんなはずはないんだがな……」
「じゃあ……やっぱりあれがそうなのかな。ちょっと前、ドームの外から銀色の光の玉が来るのが見えたんですよ。それで来たんじゃないんでしょうか」
「……船……」
「そう。命ある存在がなくなるちょっとまえに大量に飛び立ったアレ、です。ここからどこかに行って、時を経てここに戻った――そう考えたら辻褄があいませんか」
「――なにをやっている? 君の中に入った彼らは」
「探険……ですかね。私がいったいどういう存在なのかを確かめて…………。ああ、見つけたようですよ、答えを」
そう言うと図書館は、彼のなかで交わされている会話をわたしにも聞こえるように調整した。
『本だわ……。それもこんなにたくさん……』
『よく朽ちなかったなあ……。紙だぜ、これ』
『すごいわ……。ライブラリーなのね。絶対に復旧しましょうよ、ここ』
『うん。絶対な。そういえば、おまえのご先祖って、本に携わっていた人じゃなかったっけ?』
『そうよ。海の写真とってたり』
『書いてた人も』
『うん。その旦那さま』
『ここ、残ってないかな、それ』
『えー? そんな、何百年前だと思ってるのー?』
『ほんの二世紀ほどじゃないか。……違ったっけ?』
『もっと前よ……たぶん。けど、そんなの残ってるわけないってば』
明るい、笑い声。
本当にどれだけぶりか。
ここに命の重さを感じるのは。
「……普通に呼吸していますね、彼らは」
「維持装置はつけてないのか?」
「いえ。特になにも。大気は清浄なんですね、今は」
回復力は、残っていたということか。
このまま時とともに朽ちる身かと思っていたが。
『あ、これまだいけそうだ』
『なに? データバンク?』
『うん。永久電池使ってるからなんとかなりそうだし』
『それじゃ、この地区は保護保存開発対象地区指定にしてもらいましょ。貴重すぎるもん』
『うわ。ここ、展示室?』
『きゃあ! なにこれ、博物館!?』
『えっと……「生活の道具と歴史展」。特別展示だよ』
『へえ。あ、これみたことあるわ。大昔のテレビ!』
『画面、ちっちぇー』
『今は3Dフルスクリーンでも遅れてるって言われるのにね。こんなの見てたのねえ、昔の人って』
『お。鏡だ』
『うわー、アンティーク。えと……鏡台? この前に座って化粧をしたり身だしなみを整えたり……って。昔はこんなのだったんだー』
『おい、これこれ。タイヤ、二つだぞ』
『知ってる! 自転車っていうのよねっ』
『地面走るんだよなー』
『しかも、全手動で』
『足でペダル踏んで動かすんだよ。だから手動とは言わないって』
『けど、人力だもん』
『すごいよなー、昔の人って。考えること半端じゃねーもんなー』
『どうやったら思いつくのかしらね、こういうの』
『さあ。今じゃなんでも電子頭脳まかせでさ。発想も開発も販売も、全部あいつらの仕事じゃん』
『なんか、こっちのほうが人間が豊かみたい……』
『あ、これは昔からおんなじだ。やってることが』
『なに? あら……テスト? あ、そうか。昔は全部紙なんだっけ。紙に答え書いて、それが採点されて戻ってくるんだったわよね』
『今はモノがデータってだけだよな。やってることは同じ』
『あたし、今度の論文、ちょっと危ないかも』
『教授会から三重丸じゃだめなのか?』
『やだーそんなの』
『俺、それでいいかな。とりあえず卒業できれば』
『もともとできる人は黙っててよ、もう。あ、ねえねえ、これ。かわいい』
『なになに? けいたいでんわ。ああ、電話な』
『アンティーク。ほしいなあ』
『声が聞こえるだけだろ、これ』
『あたしはそういうので十分なんだけど。わざわざホログラムなんか出なくてもいいわよ』
『おまえもよくよく古い女だよな』
『あら、いけなくて?』
『そこがかわいい』
『悪かったわね』
『あ、おい! かわいいって言ってるじゃないか! 待てよ!』
なんとも。
わたしも図書館も、思わず笑っている自分に気がついた。
すっかり滅びたと思っていた命。
それが、目の前でこうして動いている。
もう永久に戻ることはないとあきらめてしまった遠い時間が、ここにあった。
「木星と火星から、調査隊が来ているらしいですよ」
「……あの赤い星か……」
「どこか、は、宇宙、だったんですね」
移住。
毒の雨にその大半が死に至った人は、真実の滅びの直前に、再生を宇宙にかけたというわけだ。
あれからいったいどれだけの時間が過ぎたのだろう。
遠い昔だと思っていたが、実際は瞬きの間しかなかったのかもしれない。
人はそのままの姿で、わたしたちの前にいる。
それだけの時間だったのかもしれない。
わたしのなかに、ほのかにあたたかなものが生まれていた。
『レポートは?』
『今送った。明日は東のほうへ行ってみよう』
『そうね。こんなライブラリーが残ってるんですもの。きっともっとなにかあるわ』
『……反省しなきゃな、人類は。この星を殺しかけた』
『うん。人間のことしか考えてなかったのよね、きっと。人も動物も植物も――命あるものはすべてこの星に守られて生かされていたのに』
『それだけじゃないよ。命がないもの――たとえばこのライブラリー。ここもきっと守られていたんだと思う。人は、物がなければなにもできない。それが命を持っていようといまいと、人が生きるためにはなくてはならない。それらすべてを守ってくれてるのが、この星だよ』
図書館から外へ出てきたふたりは、こんな言葉を交わして空を見上げ、あらためてまわりを見回す。
『――植物が、ないわ……』
『しょうがないよ。気象が荒れすぎてるからね、今は。調査がすすんで手を貸せるようになったら、きっともとに戻る』
『うん……。土を活性化させてあげなきゃ。暖かいお日様の光がいるわね』
『雨はきれいなんだ。だから、きっとなんとかなるよ』
こっくりとうなずいた少女は、今出てきた図書館への階段をもう一度あがろうとして――ふいに足を止めた。それから、ほんとうにそっと、階段の脇にある土の上へと歩を進めた。
そこは、かつては芝生を敷きつめた前庭だったところ。季節の花が咲き、季節の木々が生い茂り、開発によってどんどんと温かな空間を失っていくこの都市のなかで、憩いの地にもなっていた場所。
『――見て……』
『なに?』
少女の声に、少年がその隣へ立つ。
『…………だいじょうぶ……きっとすべてが生き返るわ……』
『――そうだな』
ふたりはしばらくその一角から動かなかったが、やがて少女がしっかりとした足取りでわたしの上へとやってきた。
じっとわたしをみつめていた少女は、ゆっくりと膝を折り、その場に跪き――
『――感謝します』
くちづけ……。
長い睫を伝った涙がひとつぶ、わたしの上へ落ちた。
そして。
少年に促されて立ち上がった少女は、彼といっしょに元来た道を引き返して行った。
「戻ったようですね……昔に……」
図書館が、感慨深げにそう言った。
たしかに。
それは図書館がここにできた当時のような情景だった。
彼がここに建ったころ、人はみな彼に感謝していた。
彼のなかにおさまる膨大な情報。それを無償で貸し出す制度。
人はそれに感謝し、また彼に感謝していた。
出入りするごとに、彼に挨拶を欠かさない者もいた。
図書館は、建物だ。
命を持った存在だとは誰も認めていないただの建造物。
それに、感謝する。
そういう時間が、たしかにあった。
そして。
わたしは、その情景を見ているのが好きだった。
「彼らはたぶん……またここに戻ってきますね」
「そうだな。そんな意味のことを言っていたようだし」
「私は撤去でしょうか。中身がいくら役にたってもこの外見じゃ……」
「なにを言っている。無意味な存在など、あるわけがないだろう。そこに在る。それだけで、それは必要なんだ。外見がどうだろうと、命があろうとなかろうと、な」
「また……あの時間がくるんでしょうか……」
「いや。それはたぶん違う時間だ。けれど――彼らが今見せたものが本当なら。そして他にもいるだろう彼らの仲間が、彼らと同じものを持っているのなら。あのころと酷似した時間がくるかもしれないがな」
「……あなたは……もうそれを認めているんですね」
「なぜそう思う?」
「彼らが現れて去るまでの短い時間に、こんなことをしてくださった。これは、あなたのちからです。あなたがこれを目覚めさせた。きっと――すべてがもとに戻ります。いや。あのころ以上の時間がきますよ。もし人が……あなたの存在を忘れたことを後悔し、やりなおそうと努力をしているのなら」
そう言った図書館の声は、深く静かな威厳をもって、周囲に染みた。
わたしの、ちから。
たしかに、彼らのまえに感じたあたたかなもの。
それがわたしのちからだというのなら。
いや。
わたしは、ほんの少し手を貸したにすぎない。
そして。
これからもその手が必要だというならば。
これからは――それを惜しまないだろうと、そう思った。
図書館の前庭の隅にぽつんと顔を出した、サクラソウの新芽をみつめて。
* * *
「ねえママ、それからどうなったの?」
「ここでこのお話はおしまいよ」
「そうなの? なんでだろう」
「だって、ここまでしかないでしょう? ほら、おやつにしましょ」
「……そうね。今日はプリン?」
「ホットケーキつき」
「わーい! じゃああとでまたねー」
かわいい右手をテーブルに向けて振ると、少女は勢い部屋を出ていった。彼女を追って、母親もキッチンに向かう。
それを見送って、テーブルの上の本が、ほっとため息をついた。
厚さ十センチはあろうかという歴史書。それは、少女の愛読書だった。
大切なふるさとの様子が、手にとるように伝わる書物。
彼女はこれを何度も何度も読み返し、何度も何度も同じことを尋ねた。
それから、どうなったの?
それから。
その言葉を聞くたびに、ひとつの星の今までを収めた彼は思う。
「それから」は、未来。
それはあなたが作り出すものなのですよ、小さなレイディ――。
彼は、自分の最後のページに書かれた情景を思い起こし、それに繋がっている現在に思いを馳せる。
もしあのとき、雨が浄化されなければ。
もしあのとき、調査隊が降り立たなければ。
もしあのとき、ライブラリーが見つからなければ。
もしあのとき、新たな息吹が芽生えなければ。
おそらく、現在はなかったろう。
この地に、物が生まれることなどなかったはずだ。
自分もここにはいなかった。
これは、この星のちから。
昔は誰も考えてはいなかった、星が生きているなど。
どんなものにも、命があるなど。
一度は完全に失ってしまったが故に、人はそれに気付いた。
物の、大切さ。
存在価値。
命があろうとなかろうと。
それがそこにある、意義。
彼は――歴史書は、少女が好きだった。
それから、どうなったの?
自分に問い掛けてくる、あの瞳。
まだ幼い彼女が、ページのなかの本当を読み取れるようになるにはもうしばらくかかるだろう。
それを読み取れるようになったとき。
彼女自身が答えを出す――必ず。
と。
少女が部屋に戻ってきた。おやつのあとは、お昼寝が彼女の日課だ。
服を脱いでパジャマに着替えると、少女はテーブルの上の歴史書を抱えてベッドに入った。枕の隣に本を置き、表紙をそっと撫でる。
「あなたはむずかしいわね。けど、あたしはあなたがすきよ。いまはかんたんにしか読めないけど、すぐにちゃんと読めるようになるわ。だから……いつまでもあたしのそばにいてね」
題字の金の文字を指でなぞり、にっこり笑った少女は、小さな声でこう言い、目を閉じた。
「おやすみ、Terra――」
Terra――それは、その歴史書のタイトル。
一度はその輝きを失った青い星。その歴史が刻まれた、書物。
テラ――地球。
無意味な存在など、あるわけがないだろう。
そこに在る。それだけで、それは必要なんだ。
外見がどうだろうと、命があろうとなかろうと、な――
小さな寝息をたてはじめた少女をみつめ、歴史書はまたほっと息をついた。
……おやすみなさい。わたしの小さなレイディ――。
そうして。
彼もまた、少女とともに眠りについた。