朝‥‥カーテンが開かれた。どこかのビルに反射した光が部屋に僅かだが差し込む。雄見(ゆうみ)の一日はそこから始まるのだ。
父親か母親か、それとも親戚の誰がつけたのかは知らないが、読んだだけでは男か女かよくわからない名前を彼が気にしていたのはもう随分昔のこと。まだ私の木目が光沢を帯びてもおらず、鏡に一点の曇りもなく、カーテンを開けば強烈な朝日がそれでいて優しく私と彼を包み込んでいたころの話だ。
それは今となってしまっては本当に随分昔のこと。もはや彼もそんなことを気にするような年ではなくなったし、取引先に覚えてもらえやすい名前をつけてくれた誰かに感謝こそすれ恨むことは無い。木目は埃と垢をかぶって古びた光沢を帯び、無意味な歴史と威厳を放つ。私の鏡はもはや彼のことをぼんやりとしか写せない――もっとも、彼が最も身だしなみを気にしていた青春時代の100分の1も最近では私を利用してくれなくなったのだからそれはそれでいいのかもしれないが。
‥‥話を戻そう。要するに誰にも同じことだと思うが、私と雄見の間にも例外なく年月は流れたのだ。春夏秋冬はダース単位で通り過ぎ、隣の家から流れる野球中継でどこが何回優勝したかを数えるのも面倒くさくなった。何も無かった周辺は開発が進み、もはや純粋な光は射し込むことはない。以前私の化粧台にとまって談笑を交したトンボも、その子孫や仲間も見ることはなくなった。
「行ってくるぞ〜〜」
新入りの鞄はきょうもご機嫌で、雄見と共に外の世界へと旅立っていく。この部屋に残された大半の仲間達は皆彼のことを妬んでいたが、私はそうは思わない。外の世界に出て、風に、人ごみに、時に雨に、衝撃に晒された結果は古株の私が一番よく知っている。ぴかぴかだった彼らは数ヶ月も経過すれば見る影もなく老いぼれ、そしていつしか埃をかぶり、気が付いたときには消えてしまうのだ。‥‥外の世界に対する憧れがないことはない。だが、要は考え方の差なのだ。蝉は命と引き換えに飛ぶ能力を得るが、もし貴方は一週間後に殺される代わりに超常的(私にとって外に出るという行為は十分超常的なのだ)な能力を得るといわれたらどうするだろう? その気になれば月にもいける、死んだはずの愛する人と話せる‥‥やめよう、仮定をどれほど話しても仕方が無い。結論だけ簡潔に述べるなら、私は太く短くよりは細く長く生きたいというところだ。
「ところで外の世界はどんな感じなんだ? 風というのは匂うのか? やっぱり太陽というのは赤いのか?」
やめればいいのに新入りのDVDデッキは今後見るはずもない世界について質問を投げかけてくる。何故物というものはこれほどまでに知りたがるのだろうか? 己がいくはずもない世界のことについて、知ったところで己には全く関係の無い世界について、あるいはそれだからこそ、己で見ることが出来ないからこそ『真実』というものを追い求めるのだろうか?
‥‥やはり動けないというのは精神衛生上よろしくない。私はそんな質問は鞄が帰ってきてからゆっくり聞くようにと適当に答えると、哲学者にでもなってしまったかのように湧き出る己の思考を何とか中断させようと心の中で鏡台を掻き毟った。
「しかしお前も老けたよな。昔はお互いあんな若造だったのに今では立派な御大臣か?」
久しぶりどころか毎日、というよりこの数十年間に3ヶ月程しか離れたことがない椅子がさも懐かしそうに私に向けて話し掛ける。椅子の奴は何度か修繕に出しているので年の割に若い。『見た目より二十歳は若く見えるだろ?』というのが彼の口癖だ。私と同い年だというのに‥‥まったくもって腹立たしい。
「御大臣とは随分だな。ただ私は考えるということに至上の命題を‥‥」
「することがないからなぁ‥‥。まったく、できることなら早く引っ越すかアンティークショップにでも売り払って欲しいもんだね。できればもっとこう‥‥賑やかな家庭にさ。子供は六人ぐらいいて、夫婦の仲も円満。間違っても喧嘩で俺を投げつけたりしない、もちろん重過ぎないことも重要だ。俺の足がいくら頑丈だとはいっても軋むのはあまり気持ちのいいものじゃない。かといって軽すぎても張り合いがないけどな。テレビが見えて日当たりのいい一等地、そしてなにより俺を愛してくれるこころの優しい家が‥‥」
‥‥どうやら椅子の奴も私とは別の意味で考えるということを至上の命題にしていたらしい。まあ考えていることの大きさ小ささこそはあれ、彼も自分の長い人生の身のふりについて真剣(?)に考えていたのだ。それを否定する勇気は私にはなかった。
「そうか‥‥そういう意味で雄見は今一つかもしれないな。若かったあいつも今ではすっかり仕事人間だ。お前に座ることもなければ、賑やかとは程遠いからな」
「その通り! まあ今の生活が不満だとは言わないがやっぱり理想の生活には憧れるもんだぜ」
椅子はまるで雄見がまだ働きかけのときに発した言葉を今まで覚えていたのか、得意げに言葉を紡ぐ。その仕草が私にとってはとても印象的で、その後は『理想の暮らしとは?』ということについて長々と部屋中の物と議論を重ねた。
「ふぅ〜〜〜。きょうもつかれたぞ〜〜〜」
‥‥‥‥鞄の声が聞こえる。どうやら帰ってきたらしい。外の世界はどうだったという質問に奴はどう答えるだろう? ‥‥そんなことを思いながら、きょうも一日が過ぎていった。
<一年後>
運命とは実に皮肉なことである。
あれから一年、私はあの日冗談で話したことそのままに、アンティークショップにいる。雄見があの年でやっと結婚して引っ越すことになり、そのための資金調達と新居の間取りの関係で私はあえなくお役御免となってしまったのだ。
くれぐれも言っておくが、私は別に雄見を恨んでいるわけではない。仕事がどれほど忙しくとも私に埃が被っていれば掃除をしてくれ、鏡が汚れれば磨いてくれたのは他ならぬ彼だ。最後に私を粗大ゴミではなくこの店に売り払ったのも彼の心遣いの賜物であると私は信じたい。そもそも‥‥
「ふっ、お前とは本当に腐れ縁だな。‥‥しかし俺達も甘く見られたもんだぜ、この値段‥‥この店の鏡台の中で四番目だってさ」
椅子が緊張感のない声で私の考えを中断させる。よく思うのだが彼のこの余計な知識は一体何処から仕入れてくるのだろうか? テレビからか? それとも開きかけの雑誌からか? あるいは‥‥いやどちらにしろ彼は常に私と一緒にいるのだから彼は私より(真に驚くべきことであるが)周囲のことに注意を向け、ちょっと聞いた下らないことやほんの少しだけ視界に映ったことを忘れないのだろう。下世話な言葉で言えば、彼は目ざとく耳ざといのだ。
普段は鬱陶しくも感じる彼の声だがこういうときには気持ちを落ち着かせてくれ、どこか頼もしくもある。長年住み慣れた雄見の家にあった物品とは違い、ここにいる物達はどこか他所様の雰囲気があって話し掛けにくい。無論会話になることもあるのだが、お互い明日離れ離れになる運命かも知れないし、なかなか深く話し合うことは出来ない。折角若返ったのだからこういうところで積極的に‥‥ああ、言い逃したがここに来る前と来た後、私は綺麗に磨かれて俗にいう『20歳は若く見えるだろ』という状態になった。こうして実際に修繕と磨き上げを受けてみると古ぼけたときの威厳は少々薄れているが、その分禍々しさ‥‥というかどこかとっつきにくさも消えて自分ではお気に入りである。
閑話休題
ともかくとして、私はのんびりと椅子や周りの物たちと会話をしながら日々を過ごしている。住めば都と言うが、ここもなかなかよいものだ。あの閉鎖された空間と違い、ここは毎日飽きがない。話題は私たちを見に来る客のことに始まり、誰が一番最初に売れるかから値引きされるのは誰だということまで。最初はとっつきにくかったここの物達とも最近はずいぶん楽しく話せるようになってきた。別れは当然あったが、それはつまり仲間達の新たな門出を意味しているのだ。言ってしまえば友人が別の会社に入社するようなもの。私も椅子もねぎらいの言葉をかけて何度となく見送った。私も何度となく私の前で客と店員とが話している光景を見たが、なにやら問題があったのだろう。結局契約までにはいたらなかった。
ある時、椅子の奴がこう私に話し掛けてきた。
「ここの生活というのはある意味理想なのかもしれないな。次々と入ってくる仲間、話し相手に困ることもないし客の話をしておけば話題に困ることもない。週に一度はピカピカに磨きあげられるし雰囲気も悪くない。傷つける奴もいない。まさに暴力のない夢の学園生活だ」
‥‥と。椅子がいつ学園生活なるものを謳歌していたのかは分からないが、私もそれには少なからず共感できるところがあったし、なによりここは毎日新たな生活を夢想できるところがよかった。さっき通った若い夫婦に買われたら? あの年配の男性に‥‥あの男は雄見にどことなく似ているななどと考えると、それは非常に楽しい。椅子が言うに『人生のパートナーを探すのはいつも楽しいことだ』らしいが、彼は本当にどこでそんな言葉を覚えてきたのだろうか? 最近では本当にここで長い間暮らすというのもいいと‥‥
前言撤回、ここで長く暮らすというのはどうやら無理そうだ。先程、本当につい先程、私の上に置かれたのは一つの絶大な効力を秘めた紙切れ、『20%OFF』。奴は不敵な笑みを浮かべて『俺が来たからにはすぐ買い手がつくぜ』と余計な気遣いを回してくれる。
ああ、人間の世界ではこの『紙切れ』というものが何と効力を持つのであろうか! 物を買うのも紙切れならば、想いを伝える手紙にも、ちょっとしたメモからテスト問題や契約書に至るまで! テレビなどでは『人はロボットに支配されている』とよく言っているが私から言わせれば、とっくの昔に紙によって支配されているのではないかとさえ思える。そうでないと言うのならばこの頭に生える紙をなんとかしてくれ!
私が心の中で放つ悲痛な叫びも虚しく、あっという間に我々の前には客が訪れ商談を始める。さすがに即決する人物はなかなかいないようであるが、もはや我々がここを離れるのは時間の問題であろう。ここで過ごした日々が走馬灯のように横切り、言い知れぬ不安が私に襲い掛かる。
「きょうだい、どうやら覚悟を決める時が来たようだぜ。年貢の納め時ってやつだ」
椅子はこんな時にも関わらず本当にどこで考えついたのかもわからないつまらない冗談を私に向けて放つ。そうさ、私はどうせお前の兄弟で鏡台さ!
‥‥いかん、冷静さを取り戻さなければ。いかなるときでも慌てるとろくなことはない。私だってもう若くはないのだ。いつ‥‥‥‥。
ここで私は一つの疑問にぶつかった。ここを離れることは確かに寂しい。だが、それは雄見のところを離れるときも一緒だったのではないかと。過ごした期間は圧倒的にこちらのほうが短い、なのに何故あの時はそれほど悲しくなかったのか‥‥言い換えるならば、何故数十年一緒に話してきた雄見を私は悲しむことなく見送ることができたのだろうか?
理由は驚くほど簡単に出た。私は祝いたかったのだ、長い間付き合っていた雄見の旅立ちを、そして私自身の旅立ちを。閉塞した空間は開かれて、私には色褪せる代わりに温かみをくれる光が照らされたのだ。雄見は幸せにしているだろうか? 今考えてみると、ひどく懐かしくさえ思える。
私は随分長い間雄見をうつしてきた。鏡はよく真実をうつす、相手をそのままうつすと言われているが、本当のところどうなのだろう? 私と雄見はいつしか同じように考えていたのかもしれない。その証拠に、私を磨き上げるときの雄見の顔は‥‥どこか誇らしげであった。
『(これ、売ってくれませんか?)』
誰かがついに決断したようだ。間もなく私と相棒は緩衝材とダンボールとにくるまれて、新たな生活を送ることになるのだろう。‥‥そこで私はどのような生活を送るのだろうか? それはわからない。だが、できることならば‥‥‥‥‥‥笑顔でいられますように。
‥‥暗闇が随分と長い。自分はどこに行っているのだろうか? 少なくとも近所の人間でないことだけは確かだ。
『‥‥‥‥ぅ‥‥ぇ‥‥』
こんな時でも相棒はモゴモゴと何かを喋っているがいくつもの遮蔽物とトラックの音にかき消されてその声は聞こえない。‥‥もっとも、たいした用件ではないのだろうが。私は少し可笑しくなった。
何回寝たかもわからない。だが、突然『ビリビリッ!』と音がしたかと思うと私は久しぶりに新鮮な空気に晒された。ほのかに漂う香り‥‥。
これは‥‥‥‥‥‥花‥‥?
「(じゃーん! 俊、これが私の新生活をお祝いする品だよ。会社辞めるついでに買ってきちゃった)」
私を自慢げに両手で指す女性と、眉間の辺りを押さえてうずくまる青年。
「(こらっ、なにがっくりしてるのよ。これって安かったのよ、なんと40%も値引きされてたんだから!)」
事実とはかなりかけ離れているが、幸せそうな家で私は少し安心した。‥‥そしてそれ以上に圧倒されたものが‥‥‥‥‥‥。一面に咲く花だ。
かつて雄見と過ごした景色とはもちろん違う。だが、どこか‥‥そして確実に懐かしい。そんな景色。もし、私に目というものがあったのならば、私は今きっとそれを細めているのだろうか?
「うわぁ〜〜〜。すげぇなきょうだい。これは‥‥‥‥‥‥」
どうやら椅子もその景色に懐かしさを覚えているようだ。もはや彼は言葉もなく、ただ広大な台地を眺めている。
そして私は彼よりほんの少しだけこの景色を早く見られたことを、密かに誇りに思うのであった。