●雨、回想
『く〜〜〜、きょうは雨か。‥‥仕方ない。お前はここで待っておいてくれな』
本当に残念そうな青年‥‥というには些か抵抗のあるこの春から就職し、晴れて社会人の仲間入りを果たした少年の香りを残す青年『西田 有史(にしだ ゆうし)』は本当に残念そうな顔をすると、もはや毎日の日課となった愛機を今日も丹念に磨き上げて気合も十分に会社へ向けて雨の中を自らの足で疾走する。
そして、部屋の中には彼が保有する唯一財産らしい財産である自転車だけが残った。
その自転車はメルセデスベンツ製作のフルサスペンションモデル。優美なデザイン、軽量性の中にも気品を兼ね備えたアルミフレーム。世界初のガソリン自動車を開発したという誇りが感じられる油圧式ブレーキ。手入れの面でも、機能性の面でもチェーンのそれを大きく凌駕する革製の駆動方式はこの自転車が自動車メーカーの単なる遊戯的生産物ではないということを強烈に主張していた。
閑話休題。
何にしろ彼、ベンツ社製自転車はシティバイクという日本ではあまり馴染みのない発想から作られた高級品‥‥言ってしまえば美術品であり、マスコミなどに取り上げられて話題や、笑い話程度に取り上げられることはあっても人々の生活に根ざすことなどありえはしなかった。したがって、これまで彼らが購入されることはあっても、それは金持ちが自らの道楽として、あるいは客人に見せるための、文字通りインテリアとして購入する程度であったのだ。
では何故彼は今ここに、名古屋の片隅の、立派というのは大いに憚れるこのアパートの一室に‥‥そう、駐輪場ではなく一室に置かれているのであろうか?
彼が西田と出会ったのはそれほど昔のことではない。
ドイツからはるばる輸送され、ご多分に漏れず自動車展示場のインテリア、あるいはちょっとした宣伝文句として置かれていた彼のもとに時代遅れの給料袋と預金のほぼ全てを吐き出した銀行袋を携えて‥‥就職活動に使ったリクルートスーツをそのまま転用しているからであろうか、くたびれたスーツを着込んだ若いサラリーマン、西田が現れたのは梅雨に入る少し前のことであった。
西田はくたびれるほどに並んだ自動車の群にも、ショーウインドウに並べられた高級車にも目を向けることなく一目散に彼の元へ向かい、そして店員に向けて半ば叫ぶようにして宣言したのだ。
「この自転車を買いたいのですがいくらですか?」
と。
西田がその時どうして彼を買おうとしたかはわからない。彼自身は恐らく派手な衝動買いの一種であろうと現在では思っている。
だが、重要なのはそこではない。重要なのは事実として彼は購入され、同時に動く権利を与えられたということである。そう、自転車とは当然であるが動くために製作されるものなのだ。部屋の中で植物のような一生を過ごすより、例え傷つこうとも動き回るほうが素晴らしいに決まっている。
だから彼は西田のことは嫌いではなかった。晴れの日には無意味に全力疾走をして渋滞に悩む車を、時には快走する自動車とデットヒートを繰り広げるため、彼の優美な身体には生傷が絶えなかったが、彼はその行為が自分をないがしろにしているとは少しも思わなかった。翌日にはまた西田がぴかぴかに磨き上げてくれるのだ。それならば少しばかり身体に傷がつこうとも我慢する気になる。
彼は西田のことを主人だとは思っていない。西田は自分が動くための手段であり、自動車でいえばエンジンである。しかし恐らく西田にとっても彼は移動手段の一つなのだろうということを考えると、あながちたがいの関係は均衡を保っているように考えられる。
『パートナーとしての存在』というのが特に夫婦間でよくとりあげられるが、彼と西田の関係はまさにそれであった。彼が街中を疾走し、多くのものと会話ができるのは西田のお陰であったし、逆に西田は彼がいることで休日、たくさんの人と話すことができた。もちつもたれつ。言ってみれば家族のような関係がそこにはあったのだ。雨の日に彼を使用しないというのはそんな二人の間にある最も簡単なルールだったのだろう。
だから彼は雨の日は豪勢に有休をとらせともらって部屋の中で偉そうにでんと構え、疲れた体を休ませるのであった。
●晴れ、快走
『うおっし、きょうは文句のつけようのない晴れだ!』
西田の本当に嬉しそうな声が狭い部屋の中から開け放たれた窓を通って外へと抜ける。そして彼は布を外され、持ち上げられると階段をガタゴトと移動する。外に置かないというのはまた彼と西田の間に結ばれた最低限度の約束。そして西田がその約束を欠かさず守っているからこそ彼は西田を腕に乗せて上機嫌に街中を疾走するのだ。
「こんにちは、きょうも相変わらずね」
「ああ、そちらのエンジンも元気そうでなにより。‥‥きょうも競争になるのかな」
「そちらのご主人は少年の心を忘れていないようだからな」
「ああ、うちのエンジンみたいなのはただ単に無邪気というか‥‥単純なだけだ」
『はっはっは、若いな少年。もっと精進したまえ』
途中出合った、ミチコという自転車と話をしている間に、西田とミチコの持ち主は無意味なスピード競争を行う。結果は当然、彼の勝ちだ。エンジン性能という点では、あるいは彼は負けているかもしれないが、いかんせんフレームの重さ、そしてメンテナンス具合が違いすぎる。毎日空気の入り具合をチェックし、フレームを磨き上げ、雨の日は乗らないので泥はねまで外したシティーサイクルと、ごく普通に管理された自転車というもともと勝負になるはずもない決戦に完勝して勝ち誇る西田に彼はやれやれと溜息を漏らしながら、尚も身体を動かして前に進んだ。
「また会ったね。最近調子はどう?」
「いつもと変わらないよ。君も相変わらずの美しさで‥‥」
数十分のサイクリングの後、彼は一見の写真屋の前でやっと一呼吸つく。いつものように話し相手はショーウインドウに飾られている写真。以外にもフェミニスト(?)である彼は会った女性にとりあえず彼なりの礼儀は欠かさない。
「また写真をとりに来たの? あなたのご主人もあなたのこと大事に扱ってくれているみたいだね。少し羨ましいよ」
「いやいや、これくらい当然のことですよ。この洗練されたデザイン、均整の取れたフレーム‥‥いつかあなたの隣に写真として飾られたいものですよ」
「ははっ、まあもしそうなることがあったら考えておくよ」
フォトフレームは微笑を浮かべる(少なくとも彼にはそう思えた)と、西田に持ち上げられて写真屋の中に入っていく彼を見送る。恐らく『自らの自転車と記念写真をとる』という特異な行動の写真がショーウインドウに飾られることはないだろうが、それがわかっているからこそ彼と彼女は楽しく会話もできたのだろう。そして彼はモデル気分で写真をとってもらい、上機嫌で店を出る。
だがその帰り道、彼の機嫌は一気に悪化することとなった。西田が『スピードメーターをどこまで上げられるのか』ということに挑戦し始めたからである。
彼は全力疾走で走られることを好まない。何故なら彼はシティサイクルなのだ。のんびりと優雅に街中をこぐ姿は似合っても、全力疾走ともなればレース用の自転車には及ばない。『何が悲しくて何の利益もない全力疾走をしなければならないのだ』というのは彼の持論である。第一にスピードメーターが自分の身体に取り付けられているということを彼は気に入らなかった。彼にとってスピードメーターとは、ブランドもののスーツに下駄を履くようなものである。そんな不恰好なものを付けられて、挙句の果てに全力疾走されたとなれば彼も文句のひとつも言いたくなる。
彼は革の駆動機を大げさにきしませたり、アルミフレームを震わせるなど取れる限りの手段で不快感を露にしたが、その意思表示は猛烈なスピードとそれに伴う風斬り音によっていとも簡単にかき消される。
更に西田のもうひとつ悪い癖として自転車屋の前をこれみよがしに全力疾走で走り抜けるという癖がある。買いたてや、あるいは空気の入れたてで、自分の自転車の速さに感動している人物をみかけると、無意味に、全くもって無意味にデットヒートを挑むのだ。西田としてはそんな行為も楽しいのかもしれないが、付き合わされる彼にとってはたまったものではない。
そして西田はそんな彼の気も知らず、わざわざ遠回りをしてまでマウンテンバイクがよく売れる自転車屋へ赴き、売る必要もない勝負を無理矢理売りつけるのだ。彼はマウンテンバイクとデットヒートを繰り広げ、きょう生傷をひとつ増やした。
それはいつものことではあったし、西田が彼のことをないがしろにしているとは相変わらず少しも思わなかったが、彼の不満は募りに募り、なんとか家に到着したときに彼はパートナーとの別れを本気で考え、不機嫌そうな顔をして部屋の中央でふんぞりかえっていた。彼自身、西田の単純というか、余りにも幼いところは好きにはなれなかったが、人間というものはそういうものだと自分に言い聞かせ、夜がふけると同時に眠りにつくのであった。
●後日
西田は数年もたつと人並みに出世し、もう少し立派なマンションに引っ越すこととなった。‥‥が、とある重大な問題が発生して西田はその数ヵ月後、また前のアパートに越してきた。
なぜならば‥‥自転車を持ったまま十数階も降りるのはなかなか辛いからである。彼は磨き上げながらもところどころ欠けてきた自らの身体を見て、お互いに少し歳を取ったのだな何気なく思う。だが、お互い歳を少し取ったからこそ、西田とまた分かり合えるものが増えるような気もした。
彼と西田はものと人であり、そしてひとつの家族であった。
そしてきょうも、彼は西田を乗せて街中を疾走し、偉そうに写真に写り、嫌々ながらデットヒートに付き合うのであった。
西田の表情は明るく、彼は『自動車を買えよ』と自転車屋のシャープペンに愚痴をこぼしながらも苦笑いを浮かべていたという。
おしまい。