■RRN2 クリスタル・クォーツ〜水の伝承〜■
第4話 「GREEN HEAVEN」 ■担当:みなみ■
■ 『ヘヴンズ・ドア』 ――現在 ■■■
風水輝は大学の講義室を出て、キャンパス内を繋ぐセラミックの小道を歩いた。爽やかな風が、何処か遠い場所から吹き付けてきて、輝のジャケットの裾を静かに揺らした。けれどもその風は、残酷なほどに風圧管理された、人工的な風だった。もしもそのとき、蒼い空に浮いている柔らかな雲さえも模造であったなら、輝は溜め息のひとつでもついたかもしれないが、それは確かに本物の雲であった。輝は背伸びをして、雲の白さに目を細めながら、穏やかな空気を思い切り吸い込んだ。退屈な「経済システム学」の講義を終えて、むしろせいせいした気分だった。
物理学部校舎の前まで歩き、そこの広場のベンチに座って、メモボードを開く。新着のメールはほとんど、金持ちや権力者たちからのパーティ招待状だった。輝はそれらをことごとく削除していき、やれやれと言うように小さく首を振った。それからメモボードを閉じて、顔を上げる。するとすぐ目の前に、都築冬星が立っているのだった。
「うわっ!」
輝は思わず驚いて声をあげる。
「と、冬星! なんでこんなとこにいるんだよ」
「いや」
冬星は表情を変えずに、軽く両手を広げた。
「すぐそこで、靴紐がほどけたんだ」
「ふむふむ、で?」
「結んだ」
「なるほど……っておい、全然質問の答えになってねぇぞ。――まあいい、座れよ。靴紐はともかく、エンザークと通信モニタ以外では初めて会うな」
冬星は頷きながら、輝に言われるままにベンチに座り、遠くに目を向けた。そうして無言のまま、腕を組んで、しばらくそうしているのだった。
「船で来たのか?」
「そんな気もする」
「……他にどんな気がするのか知らないが、船でわざわざこんなところまで来たからには、当然用事があってのことだろうね」
「ああ」
冬星は遠くを見たまま、静かに口を開いた。そのとき小さく風が吹いて、彼の髪がさらりとなびいた。
「例えば今、哀しみが世界を覆い尽くそうとしていて、もしもそれを君が事前に知ったら、どうする?」
「もちろんそんなものは払いのけるまでだ」
冬星の問いに、輝は逡巡することなく即答した。
冬星はその答えを受け止めるかのように、ちらりと輝に目をやった。今日に限っていえば、二人の視線が交わった、最初で最後の瞬間だった。
「誰も哀しい思いなんかしたくない、なぁ、そうだろう、冬星?」
「ああ」
「なぁに、俺たちがどうにかすればいいのさ。その哀しみを、誰かに気づかれる前に葬ってしまえばいい。そう、それが俺たち聖なる龍騎士『アクア・ディーオ・カヴァリエーレ』の役目だろ?」
「ああ」
「冬星の言うその哀しみが何なのか、俺にはわからないが……」
「ああ」
「おい、人の話聞いてるのか?」
「ああ……、ん? 何が?」
「おいおい、俺にちゃんとカッコつけさせろよ……」
輝は肩を落として首を振った。
「いや、確かに君の言う通りだ」
冬星は表情を変えることなく、足を組んでベンチに背中を預けた。
「僕が言う哀しみとは、エンザークとインヴェルノを繋ぐ扉、つまり『ヘヴンズ・ドア』のことなんだ」
そう呟いた冬星の横顔を、輝は驚いて見つめた。
「冬星、何処でそれを知った?」
「――ある女性が教えてくれた」
「女か。まあ、敢えてその名前は聞かないでおいてやる。ともかく、それを知っているなら話が早いぜ。当然冬星も知っているだろうが、この惑星系列において、エンザークやシーリア王女について知っている人間は俺たちを除いていない。だがな、そうでもないことがわかった。最近北方星インヴェルノで土地を広げている人形製作会社(ドール・メイカー)『ランダムハート・カンパニー』が、裏である計画を進めているらしい。それがエンザークとインヴェルノを繋ぐ扉を作ろうという『ヘヴンズ・ドア』プロジェクトだ。もともと『ランダムハート・カンパニー』はここアウトゥンノでほそぼそと人形を作っている玩具メイカーだった。ところが新しい真神(まがみ)社長を迎えて以来、その本拠地をインヴェルノに移して、土地を広く集め始めた。らしくない動きだ。そこで俺がちょっと探りを入れてみたんだよ。直接に、真神社長に会ってね。もちろん会うといっても、ボード上でのことだが」
■ 契約 ――現在より二日前、昼下がり ■■■
「こんにちは、風水君」
真神は軽く襟元を直しながら、改めて平面状のモニタに挨拶した。モニタには風水グループの御曹司、輝が映し出されている。唐突な面会依頼だったが、真神は彼の商業的な活躍ぶりを知っていたし、かねてから一度会ってみたいと考えていたので、その依頼を快諾した。
真神の座る社長室は、インヴェルノにある本社の最上階にあった。硬質ガラスの窓がデスクをぐるりと取り囲み、鮮やかな午後の陽射しを取り込んでいる。そこからの眺めは、神学の発展した聖マリアンナの土地を一望できるほどだった。遠くの地平線は霞んで見える。そこにはうっすらと雲が伸びていた。
真神は三十代前半の、若い社長である。すらりとした体に濃紺のスーツを着込み、綺麗に足を組んで、彼の体よりもずっと大きな椅子に座っている。目の前には、輝の映ったモニタ。
「あなたの作る人形は、うちの街でも評判がいい」
画面の輝は、ぎこちない丁寧さで喋る。
「まるで生きているようだ、という評判だ」
「生きているのですよ」
真神は口元を歪めて笑う。
「人形に命を吹き込む。それが私たちの目指すところですから」
「人形もいいが……、最近土地を買い集めているという話を聞いた。不動産業を?」
真神は輝の目敏さに内心舌打ちしながらも、表情には出さず、微笑を零した。
「ここは土地が安いですから」
「買い集めた土地で、妙な建築を始めたそうだね。それは、人形が踊る舞台なのかな」
「あるいはそうかもしれません」真神は皮肉っぽく目を細めた。「我々の進める『ヘヴンズ・ドア』プロジェクトでは、この世界ではない場所で、人形もダンスを踊るのです」
「見てみたいものだ」
「極秘なので」
短い会談だった。真神はそれでも満足したように、椅子に体を深く沈めた。
敢えて極秘事項の『ヘヴンズ・ドア』を持ち出したら、明らかに輝は反応した。おそらくこの会談そのものが、それを探るためのものだったのだろう。するとエンザークを守る龍騎士というのは、やはり輝のことなのだろうか。
真神は深く息をついて、デスクのスイッチを押した。デスクの中央から、巨大なガラス管がせり上がってくる。その巨大な筒の中を満たしているのは、緑色の溶液だった。そしていくつかのコードを配して、溶液の中に浮いているのは、人間の脳髄だった。脳幹や皮質の表面に極が埋め込まれ、そこにコードが繋げられている。今、それがぴくりと動いたように見えたが、それは真神の錯覚だった。
真神は恍惚にも似た表情で、そのガラス管を撫でた。
「レイチェル……、もうすぐだ」
真神の人生においては、人形を作ることがもっとも重要なことであった。それも、彼が一人娘のレイチェルを失ってから、病的とも思えるほどに、多くの人形が作られた。彼の作る人形はどれも顔カタチが似ていた。どの人形も、工場の事故で死んだ当時五歳のレイチェルそっくりだった。
けれども、どれだけ人間に似せて作っても、人形は所詮人形でしかなかった。例えそこに彼女の残された脳を繋いで見ても、誕生するのはレイチェルではなく、醜い人形だった。レイチェルの脳……つまり心を入れる人形が、真神には必要だった。完璧な人形。より人間に近い人形。レイチェルの入れ物。
完璧な人形が欲しければくれてやろうと、真神をそそのかしてきたのは、「奴」だった。「奴」は魔界を統べる闇の存在だった。そして真神は完璧な人形を手に入れるために、契約を受け入れることにした。「奴」の持ち出してきた要求は、エンザークという未知なる土地への扉を完成させ、その秩序を乱すことだった。
真神にとっては、エンザークや王女の存在はどうでもよかった。そもそもそういう世界があることさえ知らなかったのだから。ただ、完璧な人形、レイチェルの入れ物を手に入れるためだけに、彼は『ヘヴンズ・ドア』プロジェクトを発足させた。その扉を作る土地に選んだのが、インヴェルノの広大な一角だった。
ガラス管の中のレイチェルを見つめ、真神は決意を固める。
扉を開こう。
天国への扉を。
■ インヴェルノの妖精 ――現在より数時間前 ■■■
冬星は教会の長椅子に座って、高い天井を見上げていた。そこには七色のステンドグラスが鮮やかに輝いていて、神秘的な彩りを、教会全体に放っていた。周囲には誰もいない。考え事をするにはもっとも適した場所だった。彼はエンザークのことや、龍のこと、それからエンザークの混乱に比べてはるかに平和に思えるこの星々のことなどに、考えを巡らせていた。
「ハ〜イ」
陽気に挨拶しながら、片手を上げて近づいてきたのは、この前のダンスパーティで出会った緋色の瞳の女性だった。彼女は聖マリアンナの制服を着てはいたが、校章バッジを何処にも付けていなかった。
「宿題、解けた? 私は誰でしょう」
冬星は無言で彼女を見返し、それからゆっくりと口を開いた。
「リボン」
「……ハズレ」
「そうじゃなくて、君のその制服の『リボン』、結び方間違っている。ここの学生じゃないことがすぐにばれるよ」
「あら、そう」
彼女は慌ててリボンを直した。
「こう?」
「さあ。よく知らない」
「…………」
「今日は俺に何の用? ダンスなら断るが」
「ダンスは別にいいわ。それよりも、ねえ、最近この星で土地を買い占めている『ランダムハート・カンパニー』っていう会社知ってる?」
「人形メイカーの」
「そう。ここだけの話、あの会社の社長さんまずいわよ。別世界への扉を作っているんだって」
「別世界」
冬星はその言葉から、真っ先にエンザークを思い浮かべた。つまりこの星とエンザークが物理的に繋げられようとしているということだろうか。
「ねえ、まずいでしょう? その『ヘヴンズ・ドア』が開かれてしまったらどうするの、龍騎士サン。向こう側もこちら側も、相当混乱するでしょうね。その隙をついて、いろんな悪い奴らがやってくるわよ」
彼女はにやにやと笑いながら、冬星に顔を近づけた。
「君は一体――何者なんだ。どうして俺にそんなことを教えに来た?」
「私はあなたが嫌いじゃないの。理由はそれだけ」
「名前は?」
「何よ、もう降参? まあいいわ。私に名前なんて意味はないのだけれど、そうね、フェアリィとでも呼んで」
彼女がそう言ったとき、教会の扉が開かれて、冬星の友人が入ってきた。
「よお、こんなところにいたのか、冬星」彼は手を振る。「一人で何やってんだよ。何か食べに行こうぜ」
「一人?」
冬星は首を巡らせて、周囲を見回した。けれども、もう何処にも、フェアリィと名乗った女性はいなかった。
以下略。
■ 通信と考察 ――現在 ■■■
「と、いうわけだ」
冬星はアウトゥンノまで来ることになった経緯を語った。
「あのさあ、『以下略』って何だよ。省略しすぎで、よくわからん」
輝は首を傾げた。
「俺たちのことや、おそらくエンザークのことも知っているだろうその女も気になるが、それよりも何故冬星はこのアウトゥンノまで来たんだよ。インヴェルノの『ランダムハート・カンパニー』に乗り込むのが定石じゃないのか?」
「さっきも話合っただろう。僕たちは世界の混乱や哀しみを、敢えてこの平和な日常に持ち込む真似はしないと。できれば秘密裏に解決したいんだ。だから強行突破は自粛した」
「なるほど、それでまず俺のところに協力を要請に来たわけか。……それならメールの方が早くないか?」
「……あ」
「冬星、俺にはお前がまったくわからん」
輝は首を振った。
「細かいことはこの際置いといて、他のメンバーにもこのことを早く伝えたほうがいいな」
輝はボードを開いて、まずは渡良瀬夏旺を呼び出した。
「おーい、夏旺いるか? こっちは大変なことに……」
「うるせー! 今忙しいんだ。切る!」
通信は夏旺によって一方的に切られてしまった。
輝は呆然と、モニタの空白を見つめる。
「……切られたよ、おい」
「彼は保留だ」
「普通ならトラウマになるぜ、今の。じゃあ精神衛生も兼ねて、次は温和な希にしておこう」
しかし希は通信を受け付けなかった。不在のようだ。
「今日はボード運ゼロかよ」
「残るは椎堂樹だ」
輝は樹のアドレスにアクセスしてみた。しばらくの待機時間の後に、ようやく樹が姿を現した。彼はしっかりとプレスの効いた真っ白なカッターシャツを着ていたが、表情には疲弊がうかがえた。おそらく彼は彼なりに忙しいのだろうと、輝は想像した。
「やあ、ごきげんよう」
樹は笑顔を作って言った。
「何かあったの? おや、そこには冬星もいるんだね」
「大変なことになったぜ、樹。インヴェルノのすっとこどっこいが、エンザークへの扉を建造しているらしいんだ。奴らの目的は何かわからないが、エンザークが混乱に陥るのは目に見えている。できることなら、先手を打って阻止したい」
「そうか」
樹は目を閉じて腕を組んだ。
「とうとうこちら側にも敵が現れたというわけだな。俺たちは今までに何度かエンザークに呼ばれて、そこでわけのわからない連中と戦ってきた。奴らはエンザークと対極に位置するもう一つの世界、言わば闇の世界の住人たちだった。だが今回は違う、同じ人間が相手というわけだ。その人物がどうしてエンザークの存在を知ったのかは謎だが、その『扉』を開けさせるわけにはいかないな」
「で、どうすればいいと思う?」
「うん、そうだな。俺に考えがある。それは……」
その瞬間、樹の姿がモニタから消えた。
エンザークに呼び出されたのだ。
「おいっ! 樹、戻って来い! 作戦を教えてくれよ!」
「絶妙のタイミングだったな」
冬星は無表情で、蒼い空を見上げた。
■ 研究室にて ――現在より、数分前 ■■■
夏旺は科学技術研究所の研究室で、古文書の解読にあたっていた。古文書とグラスは、後日樹によって、エスタシオンに運ばれることになっている。それまでには何とか、ある程度の結果を出しておきたい。夏旺はそう考えていた。
背伸びをし、コーヒーを一口飲んで、再びデスクに向かった時、メモボードが着信を知らせた。夏旺は仕事に集中しようとしていた矢先を折られて、苛々しながらそれを手にとった。モニタには輝の顔が映し出された。
「おーい、夏旺いるか? こっちは大変なことに……」
「うるせー! 今忙しいんだ。切る!」
夏旺はメモボードを乱暴に閉じて放り投げた。メモボードはくずかごの片隅に転がった。その哀れなメモボードの姿を見つめていると、夏旺は何か悪いことをしたような気分になった。
輝たちが「大変なことに」出くわしたようだが、はたして何が起きたのだろうか。もしかするとこの前、赤龍が言っていたことと関係があるのだろうか。
あの時の会話を、夏旺は思い出す。
――なんか話があるんだろ? まぁ、言えよ。古文書は後回しにすっから。
――うむ。実はな、前々から言っておかねばと思っていることがある。どうも空間の境目が弱まっているのか、度々そちらの世界の存在がこちらに流れ込んでくるのだ。
――流れ込む? 何が。
――人形だ。陶器でできた精巧な人形が、何故か空間の隙間からこちらのエンザークに流れ込んできている。今はまだ人形だからいいようなものを、もしもこの隙間が拡大すると、次に何が流れ込んでくるかわかったものではない。
――それ、本当にあったことなんだな。そしてこれからも起こる可能性が。
――無いとはいいきれん。
■ シーリア王女へのプレゼント ――現在 ■■■
希はエンザークの中央に位置する宮にほど近い、湖のほとりにいた。湖は鮮やかな緑色に染まり、細波に揺れて輝いている。風が吹き渡ると、湖全体が一瞬にして紺色に変化し、次の瞬間にはもとの緑色に戻るのだった。風が吹く度に繰り返されるその瞬間的な変幻が、幻想めいた感覚を希の視覚に与えていた。
希は石を拾い上げて、湖に投げつける。石は湖面を蹴って跳ねていった。
「やったー、五段飛び成功」
『次は私の番だな』
黄龍が口にくわえた石を放り投げる。石は遥か遠くまで飛んでいった。
「7,8,9……、すごい、九段飛びだよ」
『大した事はない』
「本当に大したことないな、君らは。エンザークの一大事だというのに」
希の背後で唐突に声がした。
振り返ると、そこに自称吟遊詩人のカシュウが立っていた。彼は呆れたような表情を浮かべ、腕を組んでいる。
「ああ、こんにちは。カシュウさん」
「『ああ、こんにちは』じゃない! まったく君は話にならん。一体何を遊んでいるんだ。その胸に下げられている騎士の証はただの飾りか!? 王女を守る龍騎士よ、いいか、よく聞け。そしてよく見ろ!」
カシュウは足元の石を拾い上げた。
「……投げる時の腕の角度はこうだ。そして気合を入れて一気に投げる!」
「わあ、すごい! 11、12、13……十三段飛びだ!」
「な?」
希と黄龍とカシュウは、それからしばらく石を投げて遊んだ。
そこへ姿を現したのは、樹と青龍だった。彼らは風を伴って、瞬時にその場所へ訪れたのだった。
「あ、樹、君も呼ばれたの?」
「そのようだが」
樹は疲れたように周囲を見回す。それから希を最期に見た。
「希、その左手に持っている二本の細い棒は何だ? 何かの新しい武器か?」
「ああ、これはただのおハシ。食事中に呼び出されちゃったんだよね」
「ううむ、ハシの文化があるのか。それはともかく、で、どうなんだ。敵がいるのか?」
「それがさ、全然わからないんだよ。何で僕たちがここに来なきゃならなかったのか」
「そうか。一体どうなっているんだ、青龍?」
『うむ……、一体どうなっているんだ、黄龍?』
『こっちに振るな』
黄龍はぶるぶると首を振った。
『実はだな、ある人形に問題があるのだ』
「人形って、どれ? どれ?」
希は首を伸ばして辺りを見回した。
「何処にもないよ」
『そこの男が持っている』
黄龍はカシュウを顎で差した。カシュウは驚いて、自分を指差しながら首を傾げている。
「もしかして人形って、そこで拾ったこのぼろきれのことか」
彼が懐から取り出したのは、彼の言うようにぼれきれ同然の、パッチワーク人形だった。ツギハギだらけの顔は、布の種類によって部分的に赤かったり、白かったりしている。毛糸で乱暴に作られた髪の毛は長く、人形が女の子であることを示している。無造作に被せられた薄汚い布はワンピースだ。大きな瞳は茶色いボタンだった。
「これがどうかしたのか?」
『どうも漠然と危険な感じを受けるのだ』
「そんな曖昧なこと言っちゃって、実はこれが爆弾だったりなんかしたら、エンザークも大混乱だぞ」
カシュウは小さく笑いながら、人形を耳に当ててみた。
すると、カチカチと乾いた音がする。何かが、小刻みに、動いている!
「爆弾だ!」
カシュウは大声を上げて、それを希に放り投げた。希は慌てて逃げようとしたが、反射的に人形を受け取ってしまった。希はそれを両手に持って、おろおろと走り回る。
「ああ、どうしようどうしよう!」
「若き龍騎士よ、君とは短い間だったが……」
カシュウは胸に十字を切った。
「ごめんなさいそしてさようなら」
「ずるい! これカシュウさんのでしょ!」
「知らん知らん、最期に持ってる奴が責任取れ!」
「わー、助けて樹」
「すまない希、俺にはまだ遣り残したことがたくさん……」
「ぎゃー、黄龍、これを早く湖に沈めてっ!」
『いや、昨日から風邪気味で……、とてもではないが湖には……』
「あ、主を裏切ったなー! どうしようどうしよう!」
『――主よ、例の力を使うがよい』
「例の力? ぴかーってやつ!?」
希は目を閉じて、必死に祈った。いつか闇の存在がシーリアを襲った時に希から放たれた力、そして「闇の希」から自分自身を守った力。希は光をイメージし、胸の水晶に意識を集中させた。
「わ、我が名はエスペランサ!」
希が声を上げると、水晶が俄かに輝きだし、鮮やかな光を周囲に優しく広げた。その光は鋭いほどにまぶしかったが、輝きに包まれた樹やカシュウには、むしろ皮膚を通して温もりすら感じられるほどだった。希の胸では、紐に繋げられた水晶がふわりと浮いている。
光はやがて、人形を包み込んだ。人形は光の中に閉じ込められた。その数瞬後、光の球体の中で破裂音を轟かせて人形が粉々に砕け散ったが、その場の誰にも被害は出なかった。そして光は何処かに吸い込まれるように消えてなくなり、後にはバラバラになった人形が残された。
「ああ、助かった」
希は胸を撫で下ろした。
「それにしても、みんなひどい。下手したら僕がバラバラだったんだよ!」
「うろたえるな、エスペランサよ」
カシュウが深刻な顔つきで言った。
「我々はお前を試したのだ」
「う、嘘だー」
「希、さっきはすまなかった。ついつい」
頭を下げる樹に免じて、希は「別にいいけどさ」とふてくされたように呟いて、彼らを許した。
「それよりも、あの『人形爆弾』は危険な事態の予告状に過ぎないぞ」
樹は、エンザークに来る前に輝たちと話していた『ヘヴンズ・ドア』について説明した。
『人間がエンザークへの扉を開こうとしているのか』
青龍が樹に尋ねた。
「ああ。向こうでの解決方法は思いついたんだが、それよりもまずはこちらで人形掃除をしなければならないようだな。おそらく扉は既に開きかけているのだろう。試験的に、彼らは人形を送りつけているようだ。さしずめシーリア王女へのプレゼントといったところか。他にも『人形爆弾』が流れ着いているとしたら、まずはそれを撤去する必要がある」
「じゃあそれは僕がやるよ」
希が言った。
「もう慣れたし」
「よし。では俺は人形が流れ着く源流を探そう。向こうで扉を開けようとしているのなら、こちらから塞いでしまうまでだ」樹は青龍に飛び乗った。「希、気をつけて行けよ」
「うん」
「さて、私の役目は終わったことだし、いつものように詩作にでも浸るか」
カシュウは肩を竦めて、湖のほとりを歩いていった。
■ 扉の閉じ方 ――現在 ■■■
「一体どうやって『ランダムハート・カンパニー』の扉を閉じればいいんだろう……」
輝は相変わらずベンチに座ったまま、腕組みして考え込んでいた。「経済システム学そのU」の講義は既に始まっている時間だったが、初めから行く気などなかった。もちろんその後の「経済システム学そのV」にも出ないつもりだ。
「なあ冬星、一体どうし……」
「……」
「おいっ、冬星、寝るな」
「ん?」
「今寝てたろ」
「いや」
「寝てたって」
「――それなら多分寝ていたんだろう」
「……まあいい。希は不在、夏旺はカルシウム不足、樹はエンザークということで、こちら側で活躍できるのは俺たちだけなんだぞ。俺たちが何とかしなきゃならない」
「樹は既に扉のことを知っている。だからエンザーク側で、開こうとしている扉を閉じに行ってくれるだろう。おそらく希も、今はエンザークだ」
「そうか、だから希は今通信に出てこないのか。ああ、向こうと通信できりゃあなあ」
『できるぞ』
「お!? なんだ、水晶が喋った!」
輝は目を丸くしながら、胸の白い水晶を手に取った。それは普段より温かいように感ぜられた。
『我は白龍だ』
「何だよ、水晶で会話ができるならもっと早く教えてくれよ」
『ちょっと鬱気味だったのでな』
「そりゃあ……お気の毒に」
『我々の管轄には特に異変はないのだが、エンザーク全体に不穏な動きがあるようだ』
「ほう、それで?」
『それ以上のことは知らん。最近引きこもりがちでな』
水晶はそれきり温もりを失って、同時に龍の声も聞こえなくなった。輝は水晶を振ってみたり、覗き込んでみたりしたが、何も変化は起こらなかった。
「何だったんだ、今の」
「どうやらこの水晶はただの飾りではなかったようだな」
「俺専属の龍だけ何故かネクラなのが気に食わないが……、ともかく『ヘヴンズ・ドア』の影響がもう向こうに出ているらしいな」
「一刻も早く扉を閉じる必要がある」
「しかし『扉』とは言うが、それがどんな形をしているかもわからないし、場所もインヴェルノにあるということくらいしかわからないんだぜ。トイレの戸を閉めるのとはわけが違う」
「一つ考えがある」
「何?」
「扉を直接閉められないのなら、間接的に閉めればいい」
「間接的って、リモコン駆動なのかよその扉は」
「そうじゃない。――『ランダムハート・カンパニー』を倒産に追い込んで、会社の機能そのものを停止させるんだ。輝、この惑星のショッピング・モールを代表する資産家の君になら、それができる」
「株を操作するのか!?」
「そういうことだ」
■ 爆弾処理班 ――現在より、数分前 ■■■
「あ! あの木に引っかかってるの、人形じゃない?」
『うむ、そのようだ』
黄龍は体をくねらせながら、木の枝に絡まっていた布の人形を取りに行った。それを口にくわえ、希の所に戻ってくる。
希は人形を受け取ろうと、黄龍に手を伸ばしたのだが、その口元からは人形がなくなっていた。
「あら? 今人形取りに行ったんじゃないの?」
『うむ、戻ってくる途中で飲み込んでしまった』
「……ええっ、大変だ、早く吐き出して!」
■ 天国へ green heaven ――現在 ■■■
真神社長の部屋に、女性の秘書が入ってきた。彼女は小さくお辞儀して、アウトゥンノのショッピング・モール・セジュが動き出したことを真神に伝えた。そしてもう一度お辞儀すると、表情を変えずに静かに部屋を出て行った。
「もうこの会社は終わりか」
真神は立ち上がって、窓の遠くを眺める。
おそらく輝が株を動かし始めたのだろう。そしてこの会社を倒産に追い込んでくるに違いない。そもそも『ヘヴンズ・ドア』建築の借金がかさんでいたのだ。初めからこの事態は予想できていた。
真神はデスクの上の、ガラス管を持ち上げる。中のレイチェルの脳髄が微かに揺れた。時間はない。真神はそのまま、社長室を出た。隣の秘書室からエレベーターへ向かう。秘書が慌てて真神を呼び止めた。
「どちらへ」
「扉の向こう側に行ってくる」
そのときエレベーターのドアが開き、真神は乗り込んだ。
「そこでレイチェルが待っている」
「でもまだ扉は完成していな……」
秘書の声は、エレベータの扉が閉じられたことによって途切れた。
真神はパネルを操作して、最下層まで降りる。エレベーターの箱は地下最下層まで降りたところで、水平移動を始めた。そして僅か数秒で、『ヘヴンズ・ドア』のある場所までたどり着いた。
エレベーターを降りる。そこは地下に設けられた巨大な空間であった。天井は霞んで見えないほどに高い。周囲は円形に広げられていて、広大な競技場を思わせる。技術者が数名見受けられたが、遠くの人物は顔も判別できないくらい小さく見えた。
足元には光繊維で大きく円陣が描かれている。円陣に添えられるように並ぶ文字は、古代エスタシオン文字だった。
真神が歩いていくと、技術者の何人かが近づいてきて、頭を下げた。
「視察ですか?」
「いや。今度は人形ではなく、私が向こうに行く」
「しかしまだ、人間では実験すら行っていません。危険です」
「構わない。どうせこの地下も差し押さえられる。そうなる前に、私は向こうに行く必要がある」
「社長!」
円陣の中央には、小さな門があった。あまりにも小さく、『ヘヴンズ・ドア』の名前には似合わない。けれどもこれが未知なる土地エンザークへ、人間が近づける科学技術の限界だった。
真神はそのゲートをくぐる前に、何かを思い出したように、振り返った。
「会社は二、三日後に倒産するだろう。社員には私の全財産を退職金として渡すことになっている」
真神はそれだけ言って、躊躇うことなくゲートをくぐった。次の瞬間、真神の姿はその場から消え去っていたが、音も光もなく、それは実に静けさに満ちた消失であった。
気づくと、真神は見渡すばかりの草原に立っていた。草が風に揺れて、波紋を広げている。真神の足元では、かさかさと雑草が音を立てた。――ここが、エンザーク。一面花畑の天国のような世界を思い描いていたが、現実はそうではなかった。
「こんにちは、真神社長」
真神は背後から名前を呼ばれ、懐から素早く拳銃を抜きながら、振り返った。
草原の中で、肘を突きながら横になっている男がいる。彼の背後には、巨大な青い龍が座っていた。
真神は男に銃を向ける。
「おっと危ない。そんなものは向けないでください」
「誰だお前は」
「椎堂樹」
彼は立ち上がって、服の汚れを払った。
「プリマヴェーラで宇宙飛行士をやっている人間です」
真神は彼を知っていた。有名な天才飛行士だ。
「どうしてこんなところにいる?」
「あなたと同じようなものです。いや、突発的なこちらの移動より、そちらのほうがずっとましともいえる。まあ愚痴はナシにしよう。こちらから質問させてもらう。あなたは何処でエンザークを知り、何の目的で扉を作ったのか」
「エンザークなど興味はない。すべてはレイチェルのためだ」
真神は手元のガラス管を示した。
「このエンザークにはレイチェルの『入れ物』がある」
「人間の入れ物など、あるはずがない」
「ある。『奴』はそう約束した!」
真神が大声を上げたとき、彼の背後で小さな影がゆっくりと動いた。その影は銀色に輝くナイフを、大きく振り上げ、そして真神の背中にそのまま振り下ろした。樹が「危ない」と叫んだのと、真神が振り返ったのはほとんど同時だったが、そのときにはもう遅かった。ナイフは深く、真神の背中に突き刺さった。
ナイフを刺した影は、笑いながらくるくるとダンスを踊った。真神は苦しげに声を漏らしながら、その影を見上げる。それは、紛れもなくレイチェルだった。死んだときと何も変わらないレイチェルがそこにいた。
『お前の大好きなレイチェルに会えたな』
レイチェル自身が、笑いながらそう言った。けれどその声は、低くおぞましいものだった。
真神は反射的に、手の中の銃をレイチェルに向けた。
「貴様、あのときの!」
『そうだ。だが、お前との契約は破棄だ。扉は完成されなかった。爆弾も何一つ効果を出していない。私のこの姿はむしろ恩恵だと思うがいい。私はどんな姿にもなれるのだ。さて、お前は私が撃てるのかな』
「殺してやる!」
真神は銃の撃鉄を倒した。引き金に指をかける。
『パパ、やめて』
その声は、レイチェルの声だった。真神はそれが、「奴」の声帯模写に違いないことを知っていたが、思わず引き金を引くのを躊躇った。
レイチェルがゆっくり近づいてきて、真神の銃を奪い去った。真神は抵抗することもなかった。
レイチェルは物珍しげに、しばらく自分の手の中の銃を眺めていたが、その銃口をやがて真神の額に向けた。
「レイチェル……」
真神は最期に笑った。
引き金が引かれ、炸裂音と共に、弾丸が真神の頭部を撃ち抜いた。
真神が手にしていたガラス管は地面に落ち、音を立てて、粉々に砕け散った。
■ 敵 ――現在 ■■■
「お前が黒幕というわけか」
樹は、銃を手にした少女へ向けて言った。少女は樹の方を振り向いた。彼女の顔には不気味な笑みが零れていた。頬には、返り血が滴っている。
『エリュージュよ、私にとってお前は邪魔なのだ。なぜならお前がシーリア王女を守る騎士の一人だから』
恐ろしいほど低い声で、少女は言った。
少女の顔は醜く姿を変え、やがて不定形な闇色の物質へと姿を変えた。それも僅かな間のことで、闇はすぐに形を変え、みるみるうちに、航空宇宙局医療セクションのドクター真澄に姿を変貌させた。そっくりというよりは、ほとんど本人そのものであった。彼女の清潔そうな白衣も、つややかな長い髪も。
彼女はゆっくりとこちらに近づいてくる。
『樹君、体の調子はどう?』
声も真澄本人のものだった。
「お前は真澄先生ではない」
『そんなことは関係ないわ。あなたにとって私が真澄なら、私は真澄以外の誰でもないのですよ』
「残念だが、……俺は躊躇しない」
樹は胸ポケットからレーザーカッターを抜いて、踊るように体をねじり、目の前の真澄を真横に切りつけた。
真澄は初め、女らしい金切り声で悲鳴をあげたが、それもすぐにくぐもった呻き声に変わった。真澄の体は崩れていき、再び闇色の流動体に戻った。
『私は魔界を統べる者。我が体が完全になるまで、何度でも姿を変えて、お前らのもとに現れよう!』
その闇は不気味な笑い声を残して、消滅した。
エンザークに開かれた『ヘヴンズ・ドア』は青龍によって縫い閉じられた。人形の爆弾も希によってすべて駆逐された。エンザークは何事もなかったかのように、辛うじて平和を取り戻した。
混乱の中心となった緑の丘には、一人の男の死体と一つの脳髄が埋められた墓があるばかりで、今はただ、寂しげな風が吹き渡っているのだった。
■ 研究室にて、再び ――現在より、数時間後 ■■■
夏旺はデスクスタンドの光の中で、メモボードを開いた。メールニュースでは、一部で株の暴落があったことを報じている。けれどもそれは社会全体に影響を及ぼすようなものではなく、惑星系から見れば瑣末な出来事でしかなかった。ついでに何処かの会社が潰れたと補足されていたが、夏旺にとってはそんなことはどうでもよかった。
なにしろ、古文書の一部を解読することができたのだから。今夜は興奮して眠れそうにない。
自動ドアが開いて、夏旺の父親が入ってきた。彼は研究所の主任技官でもある。
「まだ起きていたのか」
「夜ってやつは、俺に断りもなく訪れるもんでね」
夏王は煩わしそうに、頭を掻く。
「だから俺に眠る筋合いはない」
「まったく、どうでもいいような理屈を。だがお前がその貴重な古文書を枕にして昼寝をしていたのを、私は知っているぞ」
「瞑想だ。馬鹿にするな」
慌てる息子に呆れるように、父親は部屋を出て行った。
夏旺は敢えて古文書の一部を解いたことを言わなかった。
何故ならそこには、エンザークとシーリアの名前の他に、エスペランサ、エリュージュ、フェイネル、スティラート、クレルフィデスの五人の名前も書かれていたのだから。
はたしてこれが何を意味するのか、夏旺にはまだわからない。
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